真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の三回目を視聴しての感想

参考)「2021-08-17
100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の二回目を視聴しての感想」

前回の二回目では、意味記憶エピソード記憶について感想を述べた。
三回目では、エピソード記憶を小さな物語、意味記憶大きな物語という言葉が使われた。
意味記憶大きな物語=集団(組織=システム)視点の思考。
エピソード記憶=小さな物語=個人視点からの思考。
ここまで書いて来て、この前の作品、「NHKテレビ番組100分de名著」「ボーヴォワール」の「老い」」を思い出してしまった。「老い」で扱われたテーマが差別だった。集団の視点からは、老いがあってほしくない状態として、差別された。
今回の「戦争は女の顔を~~」でも、三回目は戦争に参加した女性への差別がテーマとして扱われている。集団組織国家の視点から戦争に参加した女性は嫌わせる存在として差別された。つまり、意味記憶の視点から戦争に参加する女性は、平時の視点からは疎ましい存在なのである。
戦争に志願兵として参加した女性達は、戦争中では、評価される存在であったが、平時にあっては、疎ましい存在と見なされる。特に、戦争中の悲惨さ(小さな物語)を語られることは、集団組織国家側からは、いらだたされる存在となる。集団組織国家側からは、集団組織国家側を鼓舞する、喜ばせる大きな物語を求めた。
差別は、必ず集団組織国家側からの視点に立って、つまり、集団組織国家側という優位に立っての視点から、つまり集団組織国家側に同一化した上から見下ろす地点に立っての判断から生まれる。
最近、DaiGo氏の炎上が止まらないが、彼の視点から、ホームレスと生活保護受給者を見下すような発言だった。
彼は、カリスマのような、教祖的な存在として、上から見下ろす視点が常態化してしまったのだろうか。
集団組織国家側に立って集団組織国家側と同一化すると、集団組織国家を維持・運営する視点から見てしまう。そこから差別が始まる。

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