真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

NHKテレビ番組100分de名著 「日蓮の手紙」のニ回目を視聴しての感想

(「一回目」)は、日蓮の生きた時代や背景に、私の気持ちが向かった。そして、そこから発展して、日本の思想史を調べて、別のブログ記事として書いた。
参考)「(2022-02-09)私見ですが、日本の思想史をたどる」
二回目は、話題が、日蓮が弟子達(の悩みの相談)に宛てた手紙の中身の話だった。
日蓮は、弟子達に、大所高所からのアドバイスをしている。しかも、悩みをもたらす相手と、ケンカをせずに、逆に、ケンカの種を相手に与えず、お互いに、win-winの形に持って行こうと、助言する。
キリストでもそうだが、筋を通した上で、相手が反論できない方法を提示する。例えば、キリストは言う、「罪のない者だけが石を投げよ」と。あなた達は罰したいならばあの女を罰してもよいが、罰するに値する者だけが行え、と言う。罰する行為を止めないが、正当な者だけが行え、と言う。もし行為を止めていたならば、相手にケンカの口実を考えることとなる。でも、結果的には、その行為(石を投げて罰するという行為)を誰もできなかった。つまり罰する行為を止めた。このような表現ややり方を、日蓮も相談相手に助言している。
話題を変えるが、仏教では、自我を捨てる「無我」という。私の考えでは、人間は(本能で生きる)動物から超出して、(自我で生きる)人間に昇り、更に(仏性を元として生きる)仏に昇るのが、修行だと思っている。つまり、生きていく拠り所を、本能から自我へ、自我から仏性へと、切り上がって行くのが、修行だと。
であっても、自我といっても、日蓮のような大所高所からの全員良しのwin-winの形に持って行く自我に高める方法もある。私は、争うという低い自我と、協力するという高い自我、という二段階の自我があると思っている。

日蓮

日蓮

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