真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

「Winny」開発者は著作権法違反のほう助罪へ無罪判決

[2審で逆転無罪の判決]
ファイル交換ソフトの「Winny(ウィニー)」の開発者に、2審で逆転無罪の判決が下された。
[著作権法違反のほう助罪]
◎2006年12月京都地裁による一審では、「Winny著作権侵害に利用されていることを知りながらバージョンアップを繰り返した」として、著作権法違反のほう助罪に問われていた。
[利用する人に問題がある]
◎1)Winnyを利用する人に問題がある、単なる道具であるソフトウェアやその開発者に責任はないという考え方が一方にある。
[開発者の責任]
◎2)他方では、一審のとおり著作権法違反ほう助にあたる、開発者としてそれへの対応が必要だという考え方もある。
[無罪判決を得た]
◎そこで、「Winny(ウィニー)」の開発者が、著作権法違反のほう助罪に関して無罪判決を得たことに関して考えてみたい。
[このブログで取り上げてきた]
◎今まで、「Winny(ウィニー)」について何回かこのブログで取り上げてきた。それらを引用しながら、自分の考えをまとめてみたい。
[すべては権力闘争から]
◎例えば、去年「すべては権力闘争から起こっている」(2008/07/24)を書いた。そこから引用する。

安全安心を大きく優先させるか、(個人の)自由や発展という視点を重要視するかの、視点の取り方(安全安定志向と変化発展志向)の違いから来るものだろう。
何を闘っているかといえば、どちらが上位に位置するかという権力の座を争う戦いである。別の表現をすれば、知識は誰のためのものかという考えの違い。
[集団指向か個人指向か]
◎これらは、「集団指向(安全安心の優先)」か、「個人指向(自由や発展の重要視)」かと言い換えてもいいかもしれない。どちらを上位に置くか、優先させるか。
[革命は悪なのか]
◎あるいは、2年前に書いた「革命は悪なのか」(2007/07/16)から引用する。
"Winny"はこれからの時代を切り開くソフトでもある。しかも、これ自体が悪を行うのではない。現時点では、悪を容易に実行させる道具にもなる。それ故幇助罪が適用された。
既存の体制にとっては余りにも脅威の存在である。しかしながら、時代は徐々に既存の体制を突き崩す方向へと雪崩を打ったように突き進んでいっている。さまさまな面において、分野において。
革命は悪なのかどうかを判定するのは、既存の体制側に立つか、それに反対するか。どちらの思想を持つかで決まるともいえる。どちらの側から、それを見るかである。つまり、絶対的に正しい判断というのはないのである。
[悪法も法なり]
◎法律は守らねばならない。でも、私はそれを考えると、いつも「ソクラテス」を思い出す。彼は「悪法も法なり」で、法に従って逃亡よりも死を選んだ。しかし、時代の変化に適合しない法でも守らなければならないのか。
[議会制民主主義]
◎その答えとしては、時代の変化に合わせて、悪法も合法的に変化させてゆくべきだという考えに行き着く。特に日本は議会制民主主義の国なのだから。
[”Winny”開発者の有罪判決に思う]
「”Winny”開発者の有罪判決に思う」(2006/12/14)
"科学者は中立である"といえる時代はもうとっくに終わっているのではないか。科学者といえども、人間であり、社会人である。社会的責任というものも同時に担ってほしい。科学の発展という名目で、自由に原子爆弾を創る時代は終わった。
[科学者個人か社会集団か]
◎またもや先ほどの話題、「集団指向」か「個人指向」というところに戻ってくる。「科学者個人」と「社会集団」のどちらを優先させるのかという問題が。
[道義的責任はないのか]
原子爆弾を創った科学者は国家による原爆投下に道義的責任はないのか。科学者は中立であるから、それを利用した人々やそれによる被害者に対する道義的責任はないのか。それに対して、私は以前こう書いた。
"Winny"開発者が、それを開発する自由はある。が、それを社会へ公開した時点、社会へ放し飼いにした時点から、社会的責任も負うという了解を持ったことになる。それが社会一般の常識である。個人の行為は、影響範囲に大小あるが、必ず社会に影響をもたらす。
社会的責任を負いたくないならば、それを公開してはいけない。公開してから、公開を後悔するのではもう遅い。その認識が彼にはなかったのではないか。彼にはたぶん、それはソフトを使用する個人の責任範囲だと考えているのだろう。
社会的認知という合意の形成を計るべきである。それをしないで、良い面だけを高らかに掲げて、違法との判決を批判するのはやはり科学者の独善ではないか。技術は中立であるかもしれないが、社会的使用の段階ではもはや中立はあり得ない。科学者が、科学者だけが是非を決めるべきではなく、社会全体の問題として提議すべきである。個人の問題から社会の問題へと切り上げるべきだろう。
[社会に出した時点から社会的責任]
◎という考えを述べた。これは私が「集団指向(安全安心の優先)」に立っているということである。内心の自由があっても、それを口外した時点から社会的責任を負う。つまり、個人内に留めず、社会に出した時点から社会的責任を負う。
[Web2.0とは何か]
◎であっても、「Web2.0とは何か」(2006/10/27)で、私はこう述べた。
[Web2.0の特徴]として、"Winny" や"WinMX"などのファイル共有ソフト、ネット上サービスのように、ネットワークを通じてファイル・サービス・プログラムを、"相互"に"交換"・" 共有"・"組み合わせ"て利用する。ネットが一大プラットフォーム(コンピュータの基本OSのような基盤)として振舞う。その上で情報や機能が製作者の手を離れて組み合わされ加工される。
[社会的認知という合意形成]
◎個人が社会的に責任を負うという段階から、社会が(共同)責任を負うという段階へと格上げする。これを私は、「社会的認知という合意の形成」と呼びたい。
[個人所有から社会所有へ]
◎個人所有から、社会的合意形成によって社会所有へと格上げすることで、良い面も悪い面もともに社会が責任を持って対処する。これが議会制民主主義であろう。