真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

100分de名著 ハイデッガー 「存在と時間」の2回目を視聴しての感想

世人。現存在。
世人とは何か。小学生の娘が言う「お母さん、スマホが欲しい」。お母さんは言う「まだ早いでしょう」。娘「だってみんな持ってるもん」。この「みんな」が「世人」です。他の言葉で言えば、空気。同調圧力。群集心理。組織の歯車。
世人に対して、「本来的自己」=「現存在」。
お母さんは言う「みんなって誰?」。娘は言う「みんなってみんなよ」。
この問われた誰が現存在である。
本来的自己(現存在)であった赤ん坊は、小学生の頃には、世人を求め、世人としての道を歩み始める。
注)マズローの欲求階層説での、「自己実現」での実現すべきは自己(現存在)であって世人ではない。世人に留まっている限り自己実現は出来ない。自己に成るためには、蝶のように、トンボのように、セミのように脱皮しなければならない。
注)本来的自己(現存在・赤ん坊)の上に世人をまとって自我を形成する。だから改めてその自我(世人)を脱ぎ捨てる修行をしなければならない。キリストは言う、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」。
世界内存在。不安。
世界内存在とは、「生きている」ということである。生きているとは、未来に向かって立っていることである。未来は、不確定である。24時間不確定があなたに向かって進んで来続ける。これに堪えられる人がどれ程いるだろうか。
高村光太郎の詩、「道程」。
「僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ」。
不確定に立ち向かうのに不可欠の「父の氣魄」(現存在、本来的自己)を手放して、「世人」として生きる道を選ばせるのは、不確定から来る不安である。
諸行無常(あらゆるものごとは不安定)である。だのにそれから逃れようと安定を求めようとする。すると、世人が手を差し伸べて来る。その手を握り締めた途端、あなたは世人である。ゾンビに捕まれば、あなたもゾンビである。
現存在する限り一時も停止しない不安に誰が堪え得るだろうか。
それから逃れる方法が、世人に逃げ込むことである。
次回の3回目のキーワードは、「死」である。仏教では、諸法無我という。であるのに、世人は空洞の自我にしがみつく。仏教では、その自我(一切の執着で構成される)を殺して無我(自然法爾、ケセラセラ、御心のままに無為自然)になれと言う。さてハイデッガーの言うこの言葉「死」の意味するのは何だろうか、楽しみである。