真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

100分de名著、ハイデッガーの「存在と時間」の一回目を視聴しての感想

私は哲学に興味関心があるのですが、自分の知識レベルは小学生並だなあと感じています。
今回は、ハイデッガー、「存在と時間」。一回目を視聴していて、私は、仏教、それも禅宗を思い浮かべてしまった。
仏教(禅宗)も哲学部分を持っています。
私は、哲学は、人間に留まって、言葉を駆使して、世界を知ろう、読み解こう、解釈しよう、としている、と思っています。
「我思う、故に我在り」と、デカルトが「方法序説」の中で提唱した命題であるが、仏教は、我思わぬ、故に我無し、と解く。
宗教は、言葉(思索)を超えて、世界を体感しよう、としていると感じています。人が言葉で考える段階を乗り越えて、体(修行)で体感、体得するのが宗教だと。
つまり、哲学の上に宗教が重層すると。
ハイデッガーは、用語として、状態的「存在」、もの的「存在者」、環境的「世界」、人間である「現存在」を提示しました。
このあたりで一回目の内容が整った、つまり出演者が順次紹介された、ということだね・・・・・。
最後に、「存在と時間」から仏教禅宗を思い浮かべてしまった理由を述べたい。人は、動物として生まれ、環境世界から情報を吸収しながら、人として成長して行く。だが、禅宗は言う。そこに留まるな、更に脱皮して、仏性を開花させて、仏として生きよ、と。
しかし、人が仏として生きるとは、人間性を捨てることではなく、仏の視点から俯瞰して、仏の心、即ち、仏教での慈悲、キリスト教での愛から発する行動を実践することである、と私は思っています。つまり、羅漢に留まって、羅漢として生きることだと解釈しています。
羅漢とは何か。
キリスト教パウロが言った。「生きているのはもはや私ではない、キリストが私において生きているのである」と。
オイゲンヘリゲルの「弓と禅」から引用。「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなたから離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨てるのです。時が熟すまでお待ちなさい」と。
道元は言う。「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と。また、「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」と。
仏教では、それに関しては、ただ「無我」とだけ表現している。
果たして、ハイデッガーは、「存在と時間」で何が言いたかったのだろうかと、多いに関心がそそられた。