真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

100分de名著 ハイデッガー 「存在と時間」の3回目を視聴しての感想

前回(ハイデッガー存在と時間」の2回目)のメインテーマは、「世人」(生きることの不安から逃れるために、周りの空気を読み、それに同調して生きる人)であった。
注)マズローの欲求階層説では、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求の階層に当たるだろうか。
今回(3回目)は、「死」である。不安から逃れる為に世人になったが、究極的表現としての死を覚悟して、「不安に向き合え」という。不安の最大な形が死であり、常に死を覚悟して、死(不安の最上級)に向き合えという。そのような生き方を現存在と呼ぶ。
仏教でも、同じようなことを説く。世人=自我。現存在=無我。ただし、哲学は、あくまでも、人間をテーマとするが、宗教は、人間を超えた神や仏の段階にまで踏み込む。だから、現存在はあくまでも人間に留まるが、無我はそれを超えて、神仏の領域にまで登り詰めよと迫る。だから、厳密には、現存在=無我ではないが。
不安を回避する世人(自我に執着する)から、死(不安の究極形)と向き合う現存在として生きよと、ハイデッガーは主張する。
自我を守る為に不安から逃げることをやめて、この、死と向き合う現存在として生きことが、マズローの言う、自己実現をする生き方である。現存在として生きことが、本来的自己として生きことであり、その生き方が自己実現をする生き方である。
世人として、周りの声に耳を傾け、鹿や羊のように、一頭が走り出すと、皆が一斉にその後を追いかける生き方をする限り自己実現はない。
注)ハイデッガーの言う世人を、ヘーゲルは「自己疎外」(本来的自己から外れている状態)と言う。
現代は、承認欲求が強い時代であるが、更に一段の高みに登って、つまり周りからの承認を期待する心から脱皮して、自己の「良心」の呼び声に応じて、従って生きる現存在として自立する時代を目指す時が到来しつつある。
自己の良心の呼び声を聴く方法として、坐禅や瞑想をお勧めする。青い鳥は、外には決していない。あなたの心の中でかすかな声でさえずっている。
では、良心の呼び声を発している主は、誰なのだろうか。
注)マズローは、6階層目として自己超越の欲求を唱えた。自己超越の欲求とは、社会をより良いものにしたい、世界の貧困問題をなくしたいなど、自分を超えた社会、世界へ向けた欲求です。自己実現の欲求は、理想的な自分になりたいと自分が中心にあるが、自己超越の欲求は、他者や社会での未実現を実現するという、心の向きが自分から社会や世界に向き変わっている。
ところで、本来的自己、仏性、魂とは何だろうか。道元は言う、「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と。
私は、魂の実在を確信しているのだが、自己超越とは、心が自我(肉体)から魂(仏性)に視点(基点)を移すことだと思っている。道元のいう「仏の方より行われ」る段階だと思える。