真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

引きこもりと日帰り家出

引きこもりが、内向性の極みとすれば、日帰り家出は、外向性の極みといえる。
私は、内向性が強い方で、家で、あるいは、少なくとも室内で、作業をする、それも一人っきりで、作業に没頭したいたちである。
それに対して、我が妻は、かなり片寄った外向性の持ち主である。妻は、若い頃から中年期後半まで、朝早く仕事に出かけ、夜半頃に帰宅する。勿論ご飯は私が準備する。といっても、私も仕事に出かける、毎日7~8時間はパート勤めで。
妻は、土日祝日も朝早くから晩遅くまで出かける。ボランティアで少年少女のスカウト活動を引き受けているから。
親子、夫婦、兄弟姉妹の関係性を見る時に、この性向、外向性と内向性の度合いも考慮すべきだと、自分達夫婦を顧みて、そう思う。

100分de名著 ハイデッガー 「存在と時間」の4回目を視聴しての感想

今回は、「存在と時間」の4回目であるが、厳密には、「存在と時間」は、3回目までで、この4回目は、現存在(個人性)を良しとするハイデッガーが、全体主義を良しとするナチに何故加担したのかという疑問だった。
一人一人の個人が、現存在(自己判断者)として生きるのではなく、全体、集団、組織などの個人よりも大きいものに、判断を依存して生きる世人(集団への依存者)になる。
ここで勘違いが生じる。ヒトラーが、プーチンがそうであるように、民主主義国(個人個人一人一人が主権を持つ国家体制)でも独裁者が生まれ出る。民主主義国でも、国民の過半数が世人であれば、ヒトラープーチンが誕生する。
つまり、世人の集まりである民主主義国は、容易に独裁者が支配する独裁国家が誕生する。
真の民主主義国になるためには、国民の過半数が現存在として生きる状況に成らなければならない。
民主主義と全体主義、独裁主義は相容れないとしても、民主主義国と全体主義国家、独裁主義国家とは矛盾しない。民主主義国でも、国民が自主的に積極的に主権を独裁者に差し出せば全体主義国家、独裁主義国家は誕生する。

100分de名著 ハイデッガー 「存在と時間」の3回目を視聴しての感想

前回(ハイデッガー存在と時間」の2回目)のメインテーマは、「世人」(生きることの不安から逃れるために、周りの空気を読み、それに同調して生きる人)であった。
注)マズローの欲求階層説では、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求の階層に当たるだろうか。
今回(3回目)は、「死」である。不安から逃れる為に世人になったが、究極的表現としての死を覚悟して、「不安に向き合え」という。不安の最大な形が死であり、常に死を覚悟して、死(不安の最上級)に向き合えという。そのような生き方を現存在と呼ぶ。
仏教でも、同じようなことを説く。世人=自我。現存在=無我。ただし、哲学は、あくまでも、人間をテーマとするが、宗教は、人間を超えた神や仏の段階にまで踏み込む。だから、現存在はあくまでも人間に留まるが、無我はそれを超えて、神仏の領域にまで登り詰めよと迫る。だから、厳密には、現存在=無我ではないが。
不安を回避する世人(自我に執着する)から、死(不安の究極形)と向き合う現存在として生きよと、ハイデッガーは主張する。
自我を守る為に不安から逃げることをやめて、この、死と向き合う現存在として生きことが、マズローの言う、自己実現をする生き方である。現存在として生きことが、本来的自己として生きことであり、その生き方が自己実現をする生き方である。
世人として、周りの声に耳を傾け、鹿や羊のように、一頭が走り出すと、皆が一斉にその後を追いかける生き方をする限り自己実現はない。
注)ハイデッガーの言う世人を、ヘーゲルは「自己疎外」(本来的自己から外れている状態)と言う。
現代は、承認欲求が強い時代であるが、更に一段の高みに登って、つまり周りからの承認を期待する心から脱皮して、自己の「良心」の呼び声に応じて、従って生きる現存在として自立する時代を目指す時が到来しつつある。
自己の良心の呼び声を聴く方法として、坐禅や瞑想をお勧めする。青い鳥は、外には決していない。あなたの心の中でかすかな声でさえずっている。
では、良心の呼び声を発している主は、誰なのだろうか。
注)マズローは、6階層目として自己超越の欲求を唱えた。自己超越の欲求とは、社会をより良いものにしたい、世界の貧困問題をなくしたいなど、自分を超えた社会、世界へ向けた欲求です。自己実現の欲求は、理想的な自分になりたいと自分が中心にあるが、自己超越の欲求は、他者や社会での未実現を実現するという、心の向きが自分から社会や世界に向き変わっている。
ところで、本来的自己、仏性、魂とは何だろうか。道元は言う、「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と。
私は、魂の実在を確信しているのだが、自己超越とは、心が自我(肉体)から魂(仏性)に視点(基点)を移すことだと思っている。道元のいう「仏の方より行われ」る段階だと思える。

100分de名著 ハイデッガー 「存在と時間」の2回目を視聴しての感想

世人。現存在。
世人とは何か。小学生の娘が言う「お母さん、スマホが欲しい」。お母さんは言う「まだ早いでしょう」。娘「だってみんな持ってるもん」。この「みんな」が「世人」です。他の言葉で言えば、空気。同調圧力。群集心理。組織の歯車。
世人に対して、「本来的自己」=「現存在」。
お母さんは言う「みんなって誰?」。娘は言う「みんなってみんなよ」。
この問われた誰が現存在である。
本来的自己(現存在)であった赤ん坊は、小学生の頃には、世人を求め、世人としての道を歩み始める。
注)マズローの欲求階層説での、「自己実現」での実現すべきは自己(現存在)であって世人ではない。世人に留まっている限り自己実現は出来ない。自己に成るためには、蝶のように、トンボのように、セミのように脱皮しなければならない。
注)本来的自己(現存在・赤ん坊)の上に世人をまとって自我を形成する。だから改めてその自我(世人)を脱ぎ捨てる修行をしなければならない。キリストは言う、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」。
世界内存在。不安。
世界内存在とは、「生きている」ということである。生きているとは、未来に向かって立っていることである。未来は、不確定である。24時間不確定があなたに向かって進んで来続ける。これに堪えられる人がどれ程いるだろうか。
高村光太郎の詩、「道程」。
「僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ」。
不確定に立ち向かうのに不可欠の「父の氣魄」(現存在、本来的自己)を手放して、「世人」として生きる道を選ばせるのは、不確定から来る不安である。
諸行無常(あらゆるものごとは不安定)である。だのにそれから逃れようと安定を求めようとする。すると、世人が手を差し伸べて来る。その手を握り締めた途端、あなたは世人である。ゾンビに捕まれば、あなたもゾンビである。
現存在する限り一時も停止しない不安に誰が堪え得るだろうか。
それから逃れる方法が、世人に逃げ込むことである。
次回の3回目のキーワードは、「死」である。仏教では、諸法無我という。であるのに、世人は空洞の自我にしがみつく。仏教では、その自我(一切の執着で構成される)を殺して無我(自然法爾、ケセラセラ、御心のままに無為自然)になれと言う。さてハイデッガーの言うこの言葉「死」の意味するのは何だろうか、楽しみである。

100分de名著、ロジェ・カイヨワの「戦争論」の一回目~四回目を視聴しての感想

これが、急遽再放送されたのは、「プーチンの戦争」が発生したからだろうと、想像した。
戦争論では、フランス革命(国民が主人公となった)によって、戦争は国民戦争の段階に突入したと言う。更に、第二次世界大戦で、広島と長崎に原爆が投下されたことによって、帝国主義的戦争(相手国に打ち勝って相手を支配するという領域拡大の為の戦争)は出来なくなった。というのは、核によって、相手を殲滅し自らも殲滅されるという破壊しか残らない戦争になる可能性が分かった。
そこで限定戦争に成らざるを得なくなったが、限定戦争では、戦場となった方が有利になるという逆転現象が生まれている。アメリカやロシアは散々思い知ったはずだ。
今回のプーチンの戦争においては、ロシア側は帝国主義的戦争を戦っているが、ウクライナ側は、フランス革命を戦っている。
実は、フランス革命後に登場したナポレオンが国民戦争を戦った。一方的に相手国に攻め込む、今回の「プーチンの戦争」でも、そうだが、これが相手国に強いナショナリズムを呼び覚ましてしまう。
それに対して、余り大義名分を感じないロシア軍。対する強いナショナリズムを呼び覚まされたウクライナ側。
アメリカによるベトナム戦争と同じ結果に終わりそうな気がする。

100分de名著、ハイデッガーの「存在と時間」の一回目を視聴しての感想

私は哲学に興味関心があるのですが、自分の知識レベルは小学生並だなあと感じています。
今回は、ハイデッガー、「存在と時間」。一回目を視聴していて、私は、仏教、それも禅宗を思い浮かべてしまった。
仏教(禅宗)も哲学部分を持っています。
私は、哲学は、人間に留まって、言葉を駆使して、世界を知ろう、読み解こう、解釈しよう、としている、と思っています。
「我思う、故に我在り」と、デカルトが「方法序説」の中で提唱した命題であるが、仏教は、我思わぬ、故に我無し、と解く。
宗教は、言葉(思索)を超えて、世界を体感しよう、としていると感じています。人が言葉で考える段階を乗り越えて、体(修行)で体感、体得するのが宗教だと。
つまり、哲学の上に宗教が重層すると。
ハイデッガーは、用語として、状態的「存在」、もの的「存在者」、環境的「世界」、人間である「現存在」を提示しました。
このあたりで一回目の内容が整った、つまり出演者が順次紹介された、ということだね・・・・・。
最後に、「存在と時間」から仏教禅宗を思い浮かべてしまった理由を述べたい。人は、動物として生まれ、環境世界から情報を吸収しながら、人として成長して行く。だが、禅宗は言う。そこに留まるな、更に脱皮して、仏性を開花させて、仏として生きよ、と。
しかし、人が仏として生きるとは、人間性を捨てることではなく、仏の視点から俯瞰して、仏の心、即ち、仏教での慈悲、キリスト教での愛から発する行動を実践することである、と私は思っています。つまり、羅漢に留まって、羅漢として生きることだと解釈しています。
羅漢とは何か。
キリスト教パウロが言った。「生きているのはもはや私ではない、キリストが私において生きているのである」と。
オイゲンヘリゲルの「弓と禅」から引用。「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなたから離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨てるのです。時が熟すまでお待ちなさい」と。
道元は言う。「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と。また、「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」と。
仏教では、それに関しては、ただ「無我」とだけ表現している。
果たして、ハイデッガーは、「存在と時間」で何が言いたかったのだろうかと、多いに関心がそそられた。

ロシアによるウクライナ侵攻の歴史的背景

私は、何故ロシアが、世界から非難されるとわかっているウクライナ侵攻を始めたのだろうか、不思議に思えた。それで、何か歴史的背景があるのではと思い、少し調べてみた。
昔から、西側ヨーロッパ(西欧)とロシアは敵対的関係にあった。ロシア帝国(1721年11月から1917年9月まで)が誕生して、明確に、力(武力、軍事力)による対決が繰り返された。
ロシア帝国が崩壊した後は、ソビエト連邦(1922~91年にユーラシア北部に存在した世界最初の社会主義国)と西欧(資本主義陣営)とで、思想(経済)的対立に移行した。つまりどちらの思想を広めるかで、戦いが繰り返された。
思想戦争も、ソビエト連邦の崩壊によって、終わりを告げた。ソビエト連邦が瓦解して、中核のロシアだけとなった。しかも曲がりなりにも、ロシアは、西欧と同じ思想を取り入れた。
これで、つまり、両陣営とも同じ思想、同じ経済体制を持ったので、長年に渡る、西欧とロシアにおける戦いが終わったかに思われたが、お互いに、相手を信頼するという段階にまで至っていなかった。長年の戦いの歴史は、そう簡単に忘れることはできなかったのだろう。
西欧は、ロシアを恐れている。同様にロシアも西欧を恐れている。ロシアにとってかちんとくるのは、緩衝地帯(中立国)としての機能を果たしていたウクライナが、明確(思想や経済面だけではなく軍事面でも)に西欧世界に入ると宣言したことだ。
ロシアのプーチン大統領は、これを絶対に許すことができなかった。彼は、武力をもってしてでも、これを阻止しようとして、実際に今回の武力侵攻となったのが、ことのいきさつだろう。

パニック、パニック。アラジンの偽サイトにはまってしまった!!!

昨日、何気なく見たサイトで、トースターが無茶苦茶安かった。その場でポチろうとしたが、一晩考えることにした。
翌日の今日、やはり買おうっと決心。サイトに、氏名、住所、メールアドレス、クレジットカード情報を入力。
だが何回かミスする。何とか完了。メールの自動返信を待つ。なかなか来ない。なんか変だ! アラジンのサイトを検索。違う!!
偽サイトにはまったか?!
正式サイトを確認。しまった!やられた!
クレジットカード会社に連絡。利用停止を依頼。
既に使われた部分は止められない! 即時の利用停止依頼と再発行を依頼。
手元に新しいカードが届くまで3週間かかる。
カード会社webページで停止を確認。新しい融資情報はない。利用履歴は4日程度のズレがある。
電話中、自分の声が上ずり、震えているのを感じた。
今まで、クレジットカードを登録したショッピングサイトで、カード情報を削除しまくった。
文字通り、神様仏様と手を合わせた。
皆様もくれぐれもお気を付けください!

3月11日の追記)
現在のところでは、不審なカード利用はない。また、偽サイトに記入したメールアドレスを使っての不審なメールも来ていない。ただし、グーグルが事前に受信ボックスから排除しているのかもしれないが。個人情報記入後、1時間以内だったからセーフなのかもしれない。とにかく不幸中の幸いだ。

今回のロシアによるウクライナ侵攻について感じたこと

参考)「サイバー攻撃「大国」ロシアに国際ハッカー集団が「宣戦布告」、軍人10万人の個人情報流出」
ロシアは力(武力)で目的を果たそうとした。ウクライナはよく持ちこたえている。それに対して、諸外国は何をしているだろうか。アメリカやヨーロッパやその他の国々は、武力で守ろうとはしていない。
言論や経済力で、ウクライナを守ろうとしている。
昔は、武力に対して武力で応戦していた。だが、これは、世界大戦へと発展して、全ての国が疲弊してしまう。
言論と経済力での応戦は、即座の大きな効果が期待出来ないが、真綿で首を絞めるように効いて来る。
ロシアのプーチン大統領は、諸外国によって締め付けられる経済力による封鎖はこたえて来るだろう。
多分経済力封鎖から来る自国民の不満攻撃に晒されるのだ。
グローバル化が進んだ現在では、多分野に渡っての経済封鎖は打撃が大きいだろう。特に決算システムに対する封鎖は致命傷になる。
だから、武力侵攻に対して武力での応戦よりも、経済封鎖が長い目で見れば効果的である。武力では真の解決へと導かない。
これをつぶさに見ているだろうね、北朝鮮と中国は。武力による解決手段の代償がどうなるのかということを。

100分de名著 日蓮の手紙の四回目「老病死」を視聴しての感想

日蓮の凄さは、信者と同じ地平に居て、同じ方向を見て、共感して、という、今時の言葉で表せば、"with you"、「あなたとともにある」を体現した人である。
であっても、世は諸行無常なので、何時までも感情の中に沈み込んでいるのではいけない。そこで嘆きの根源(老病死)を対象化して行くことによって、そこから救い上げていこうとする。それは、一言で言えば、言葉化、言語化である。もっと一般的に言えば、見える化である。対象化することによって、そこから抜け出すことができる。比喩的に言えば、自分の姿を鏡に映し出すことである。対象化は客観視である。
所で、日蓮は、霊山浄土(りょうぜんじょうど)という言葉を使う。この浄土は娑婆世界の中に存在する。禅宗では「娑婆即寂光土」(しゃばそくじゃくこうど)という。即ち、この世という迷界のほかに仏界なしと、禅宗は主張した。
私は、仏教のいう仏性とは魂のことだと感じている。所が人間は、生まれて数年後には自我が発生して、その自我を拠り所として生きて行く。自我を拠り所として生きて行くこの状態を迷界という。つまり迷界とは場所ではなく状態である。そこで、修行によって、自我を滅失させ、仏性(魂)を目覚めさせていくことで、この世を仏界にして行くと、私は見ている。そして、仏性が完全に目覚めた人を、覚者、悟った人という。
自我からは、生老病死が見えるが、仏性(魂)からは、生老病死は存在しない。あるのは、ただただまばゆい浄土ばかりなりである。だが、迷界が場所ではなく状態であったように、浄土も同様に場所ではなく状態である。

日蓮

日蓮

Amazon

NHKテレビ番組100分de名著 「日蓮の手紙」の三回目(「男女差別」)を視聴しての感想

日蓮の手紙の三回目、男女差別を見た。日蓮が依拠する経典は、法華経であり、その中では男女の平等を説く。だが、日蓮の時代は勿論のこと、現代でも、差別は厳然として存在する。
そこで、私は、その差別の生物学的根源を調べてみた。そして、「差別の根源は「否定的な連想を持ちやすい感受性」:研究結果」に行き着いた。
そこからのかなり加筆、改変しての引用。
「偏見を持ち、人種差別的である人々のほうが多数派(白人のうち、黒人に対してなんらかの偏見を持っている人の割合は80%以上)だが、差別的でない人も少数(偏見度が顕著に低いという人は白人のうち約7%)存在する。それらの人は、人種問題に限らず物事一般に関して否定的な連想をしない傾向が強い。
進化の過程において、人は良い物事(生につながる事柄、食物など)よりも悪い物事(死につながる事柄、敵など)に注目していたため、否定的な印象の方が多くの人の心を支配しやすい」。

次に、悲観主義、楽観主義に関して調べた。ラカンは言う。「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。いや、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す」と。

次からは上の記述からの私なりの解釈。気分はその人を支配する大きな無意識からのうねりである。意識とは、無意識の惰性から抜け出す力であり、最上階にあって、意思決定をした後に、方向性を持って進む力が意志である。意志は意識からしか生まれ出ない。
つまり、無意識に流されると、生物学的動機から、悲観的になる。そこから抜け出すには、意識して意志を定めて、敢えて楽観主義を保つ必要がある。

車はいずれレゴブロックになる

世界は、大きな潮流が発生すると、一気呵成に変化発達発展する。私達(私は現在73歳)は、デスクトップパソコンがあっという間に発達し進化するのを目の当たりにして来た。デスクトップパソコンがあれ程急速に発達したのは、他分野から大挙して押しかけて、各部品があれよあれよという間に、発達発展してしまったからだと思っている。
それと同じように、電気自動車は、レゴブロックのように細分化されて、各部品に他分野から大挙して押しかけて、発達発展させてしまうだろう。
電気自動車の発達は、都会を一転させてしまうだろう。電車は、線路がなくなり、電気自動車も、そこを走るだろう。駅はビルと一体化し、電気自動車が、ビル間を走り回り、駅で電車の道を走る。
全自動電気自動車では、車の所有はほとんどなくなり、カーシェアが当たり前になる。スマホで、自宅まで車が迎えに来て、自動で目的地まで送り届け、勝手に、充電ステーションまで戻っていく。
車は、レゴブロックになるので、車輪部品、電池部分、客室部分、運転部分が、バラバラで待機して、呼びだし時に相応しい形に合体する。そうなると、自動車産業が解体する。
参考)「バイドゥ、自動運転配車サービスを深圳に本格導入」

仏法は階層構造である

仏法とは、宇宙・大自然全体の生命活動や、それから生じるありとあらゆる事実(尽十方界真実)を言う。
私は、宇宙原理は、階層構造で構成されている、と考えている。法則も階層構造である。最低階層は、物理(物質)法則である。その上に化学法則が積み重ねられている。更にその上に生物法則としての本能(生物行動法則)が積み上げられている。その上に、自我法則(心理・精神法則)が積み重ねられている。更にその上に仏法が積み上げられている。
注)本能とは、経験学習しなくても持っている知や行動様式。自我は、人間が経験学習によって獲得した知や行動様式。
仏法とは、再度述べると、宇宙・大自然全体の生命活動や、それから生じるありとあらゆる事実(尽十方界真実)を言う。仏法とは、物理法則も、化学法則も、本能も、自我法則も、全てを包摂している法則を言う。
これは、正反合の弁証法である。弁証法では、上は、下を包摂した形の止揚をして形成される。つまり、最上階は下全ての階層を包摂している。
これを、多即一、一即多という。あるいは、一即一切ともいう。私は、トーナメント形式と呼ぶ。一の世界(階層)(神仏階)は、無分別智の世界観であり、その下の多の世界(階層)は、全て分別智の世界観である。つまり俗世間は、分別智の世界観を持って暮らしている。

NHKテレビ番組100分de名著 「日蓮の手紙」のニ回目を視聴しての感想

(「一回目」)は、日蓮の生きた時代や背景に、私の気持ちが向かった。そして、そこから発展して、日本の思想史を調べて、別のブログ記事として書いた。
参考)「(2022-02-09)私見ですが、日本の思想史をたどる」
二回目は、話題が、日蓮が弟子達(の悩みの相談)に宛てた手紙の中身の話だった。
日蓮は、弟子達に、大所高所からのアドバイスをしている。しかも、悩みをもたらす相手と、ケンカをせずに、逆に、ケンカの種を相手に与えず、お互いに、win-winの形に持って行こうと、助言する。
キリストでもそうだが、筋を通した上で、相手が反論できない方法を提示する。例えば、キリストは言う、「罪のない者だけが石を投げよ」と。あなた達は罰したいならばあの女を罰してもよいが、罰するに値する者だけが行え、と言う。罰する行為を止めないが、正当な者だけが行え、と言う。もし行為を止めていたならば、相手にケンカの口実を考えることとなる。でも、結果的には、その行為(石を投げて罰するという行為)を誰もできなかった。つまり罰する行為を止めた。このような表現ややり方を、日蓮も相談相手に助言している。
話題を変えるが、仏教では、自我を捨てる「無我」という。私の考えでは、人間は(本能で生きる)動物から超出して、(自我で生きる)人間に昇り、更に(仏性を元として生きる)仏に昇るのが、修行だと思っている。つまり、生きていく拠り所を、本能から自我へ、自我から仏性へと、切り上がって行くのが、修行だと。
であっても、自我といっても、日蓮のような大所高所からの全員良しのwin-winの形に持って行く自我に高める方法もある。私は、争うという低い自我と、協力するという高い自我、という二段階の自我があると思っている。

日蓮

日蓮

Amazon

私見ですが、日本の思想史をたどる

NHKのテレビ番組、「100分de名著」、「日蓮の手紙」を見て、日本の思想の変遷を辿ってみたいと思ったので、この記事を書くこととなった。
まず思想とは、人々の言動の基礎としての知識体系となるものである。
その前に、これは単なる私の私見であることを申し添えておきたい。
日本においては、古代(原始時代のあと大和、飛鳥、奈良、平安時代:古代は王朝が支配する時代)は、占いや神話が、人々を導く思想(占いと神話の時代)であった。しかし、それは大和時代(大和朝廷による古代国家の基礎が整えられた時期)までであって、その後、仏教が国を治める思想として取り入れられた。それは、仏教に帰依していた推古天皇が、592年に天皇に即位したことをきっかけに、状況は変化し始めた。その頃、聖徳太子が活躍した時代でもある。既に飛鳥時代には仏教は伝来していた。その後の710年から784年までの74年間を奈良時代というが、その後には仏教は日本社会に深く浸透していた。
鎌倉時代になって、新興仏教も勃興して、新仏教も旧仏教もその後ながらく仏教思想が中心であった。しかし、江戸時代には、儒教の隆盛期である。それまでの仏教の僧侶らの教養であった儒教から、独立した学問として発展を遂げた。特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。これは、それまで仏教は、時の権力と対峙して来たという歴史があるからでもあろう。織田信長の仏教弾圧の無茶振りを見れば納得されるだろう。
明治になると、憲法が思想の中心となる。西欧においては、憲法は、権力者と対峙して、権力者を縛る、自分達庶民を守るべくして制定された契約書である。かくて、憲法が法律が判断の拠り所となった。
しかし、戦後の昭和時代においては、科学が思想化する。つまり、科学が判断基礎、判断規準となる。科学技術は、持て囃されてきたが、原子力が使われる時代になって、その恐ろしさ(1986年4月26日 チェルノブイリ原子力発電所事故、2011年3月11日 福島第一原子力発電所事故)に驚いたことがきっかけで、その科学も、思想としての信頼が揺らぎ始めている。
では、この先の基礎となる思想(生きていく上での知識体系)として、何が登場して来るのだろうか。私は、既に始まっているが、「集合知」だと感じている。なお、集合知とは、多くの人の知識が蓄積したもので、その膨大な知識を分析したり体系化したりして、活用できる形にまとめたもの、をいう。

[asin:4065269415:detail]
[asin:B0791Y75BD:detail]
[asin:4121023005:detail]
[asin:B08KFYD1Z2:detail]