真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

NHKテレビ番組100分de名著 「日蓮の手紙」の一回目を視聴しての感想

NHKテレビ番組100分de名著 「日蓮の手紙」の一回目を視聴して、日蓮について知りたくなったので、調べてみたことを書きたい。
日蓮の生まれた時代。日蓮は、鎌倉時代の仏教の僧である。彼は、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖である。
この時代に起こった鎌倉仏教とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。つまり、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した。旧仏教の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず、ただ信仰によって在家のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。これを読むと、ユダヤ教とキリスト教の対比を思い浮かべる。キリスト教も初期には迫害に苦しむが、日本でも、新仏教に対する旧仏教からの迫害に苦しむこととなる。日蓮への迫害も熾烈をきわめる。

100分de名著 「金子みすゞ詩集」 第4回目を視聴しての感想

1月11日にこのブクロで書いた「100分de名著 「金子みすゞ詩集」 第1回目を視聴しての感想」で、「大正時代の大きなメディアは、「雑誌」であった。雑誌メディアは、全国で、埋もれている、表現力に勝れた者達からの投稿の場であった。幸に雑誌に載せられた、投稿作品が、これまた、全国に広がる、表現手段を持たない人達の、心の中に沈んだ気持ちを、成長の種を、眠る精神を、揺さ振る。(雑誌)メディアとは、そういう役目を背負っていた」と感じた。
2回目では、「今回の二回目は、視点について考えた。小説もそうだが、詩や歌(短歌、俳句も含めて)の命は、視点だ、と感じる」と書いた。私のような凡人には見えない持てない視点(方向)、目線(高さ)から表現している。そして、それらに接すると、はっと気付かせてくれる。
3回目では、「金子みすずは、時代精神を背負い、体現し、具現化しようとした、時代の申し子である」と感じた。
注)「時代精神とは、ある時代の哲学や文学、芸術における支配的な精神傾向のことを指す」
今回4回目では、番組を視聴していて、「言霊」という言葉が浮かんで来た。言霊とは、「古代の日本人は言葉に宿る霊力が,言語表現の内容を現実に実現することがあると信じていた」という。私は、言霊を、頭に働きかける知識だけではなく、心や体にまで、働きかける力を持った言葉と見ている。
注)催眠状態では、受け手は、術者の言葉を聞くだけで、それを行動化してしまう。
聴く者、読み手の心や体に響き渡る力を持つ表現もあれば、ただ虚しさだけが残る表現もある。
金子みすゞの詩は、弱き者たち、小さき者たちに向けた応援歌である。

100分de名著 「金子みすゞ詩集」 第3回目を視聴しての感想

私は、基本的に、文学は苦手で、ノンフィクションに心が向かう。だから、残念ながら金子みすずの文学を語れない。だったら書くなよ、としかられるかもしれない。ということで、100分de名著 「金子みすゞ詩集」の番組内容とは、かなり視点が異なることをご承知頂きたい。
金子みすずが生まれた大正時代は、江戸時代(徳川体制)が崩壊して、新しい国作りに邁進した明治時代の後に続く時代であった。明治時代は、芥川龍之介、森鴎外、夏目漱石などの男文学の時代であった。そしてその後の大正時代は、どちらかと言えば、女流文学、優しい文学が、花開いた時代であった。
ここまで書いて来て、これは過去にもあったなと感じた。
それは平安時代である。その前の奈良時代は、中国を手本とし、仏教を思想的基盤として、国作りを完成させた時代である。その後の平安時代は、紫式部、清少納言など女流文学が花開いた時代であった。
これを家庭で例えると、暮らしを営むための基盤である家が建ち、その後に、内装に取り掛かる。家具を買い、生活道具を揃える。
大正時代に生まれたみすずは、そういう立ち位置にいたと思う。
視点が、具体から抽象へ、物から心へ、物質から精神へ、と内転した時代であるのが、平安時代や大正時代である。
そういう面では、金子みすずは、時代精神を背負い、体現し、具現化しようとした、時代の申し子である。
ちなみに、私は、日本の明治時代から現在までを、三区分する。明治時代(1868年)から昭和20年(敗戦:1945年)までを、力(武力)優先の時代とみる。次の昭和20年(1945年)から昭和のバブル崩壊(1989年)までを、経済優先の時代とみる。その後の、バブル崩壊後から現在までを、文化優先の時代とみる。その文化の先駆けが、漫画である。

100分de名著 「金子みすゞ詩集」 第2回目を視聴しての感想

一回目は、メディアについて、考えた。金子みすゞの時代は、雑誌がメディアだった。今は、インターネットがメディアである。
今回の二回目は、視点について考えた。小説もそうだが、詩や歌(短歌、俳句も含めて)の命は、視点だ、と感じる。
例えば、石川啄木の「我を愛する歌」の冒頭は、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣なきぬれて蟹とたはむる」である。
この冒頭部分は、ジェットコースターで、高くて広いテッペン(東海)から地上スレスレ(われと蟹)まで落ちて行く感覚を味わう。
この視点とりには、脳科学的に言えば、右脳、特に、頭頂連合野の右脳側が優位的に司る。
所が、言語は、逆で左脳が優位的に司る。だから、言葉を視聴しながら、視点とりも行うには、じっくり時間をかけて、脳の左右両方を存分に働かせながら味わう必要がある。
別の例を挙げると、歴史を見て行くには、時間の幅を視野に納めなければならない。例えば、歴史絵巻物を広げて行くように。であっても、縦軸の時間幅だけではなく、横軸の空間(地政学的な意味において)をも視野に収める必要があるが。ここでも、右脳左脳を同時並列的に働かせる必要がある。
本を読む、話を聴く、特にゆっくりじっくり読む聴くことの効用の一つが、この視点とりや視野の広がりを獲得出来ることである。先人達から様々な視点とりを取得し、しかも、それらを自ら(脳)の中に統合した上で、高見から俯瞰することができる、つまりネットワーク思考が出来る能力を身につけたいものである。
注)ネットワーク思考とは、これまでの1つ1つの部品に着目して研究を進めてきた還元主義から、部品相互の関わり方も含めて全体の機能をとらえる思考方式。

脳ネットワーク

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100分de名著 「金子みすゞ詩集」 第1回 詩心の原風景を視聴しての感想

大正時代。大正デモクラシー。女性が大挙して表世界に登場した時代。
私は、今回「金子みすゞ詩集」第一回を視聴して、「伊集院光」氏の、読みの深さに敬服する。見えないものを見せてくれる。文字表現を映像化してくれる。左脳言葉を、右脳画像化してくれる。カメラワーク。視点取り。
今日、彼から、メディアとは、に改めて気づかされた。メディアとは、仲介者である。大正時代の大きなメディアは、「雑誌」であった。
雑誌メディアは、全国で、埋もれている、表現力に勝れた者達からの投稿の場であった。幸に雑誌に載せられた、投稿作品が、これまた、全国に広がる、表現手段を持たない人達の、心の中に沈んだ気持ちを、成長の種を、眠る精神を、揺さ振る。(雑誌)メディアとは、そういう役目を背負っていた。
今は、そういう役目を、インターネットが担っている。私は、文字表現手段が好きなので、ブログを利用している。
今、大手メディアである、紙の新聞が、テレビ番組が、斜陽産業真っ只中である。この大きな要因が、両者共に、一方通行の上から目線な、大手メディアであるということである。
今は、ちょっと上の表現者が、小さな、あるいは中くらいのメディアに載せて、自分を表現する時代にある。
といっても、紙新聞が、テレビ番組が完全に消滅することはないだろう。少なくとも、後何十年かは。
新聞もテレビ放送も、知識産業として、過去から蓄積した情報を、GAFAがやっているように、二次利用、三次利用して、道を切り開いていくべきだろう。
産業は、古い物の上に新しいものが、重層する。これが宇宙の基本原理であるから。

静かな小売り革命が起きているかも。

スーパーマーケット全盛の時代が過ぎた。今は、ネットの時代である。そのネットで、世界では、アマゾンが一人勝ちをしている。日本では、楽天が我が世の春を謳歌している。
しかし、今、スーパーマーケットが昔(過去)の話になったように、アマゾンや楽天がすこしずつ斜陽にありつつあるように思える。ネットモール型のアマゾンや楽天の横暴が取り沙汰されることが増えた。つまりマイナス面が見えて来た。上り坂では、誰もがプラス面に目を奪われがちだった。マイナス面が目に付くのは、鼻につくのは、下り坂を転がっているからだろう。今でも集客力はとてつもなくでかいが、モール側からの規制、強制も厳しいものがある。
ということで、次は、ネット内での小売りの時代が明けようとしている。最近テレビCMでも、ネットショップが盛んに目に付く。
以前は、農家は、農協に牛耳られ、その次には、大手のスーパーマーケットに買い叩かれていた。その後は、アマゾンや楽天の大手ネットモールが幅を効かせた。農家は、やっとネットに販路を見出だしたようだ。
日本でも、このような小売り業者が、農協や大手スーパーに、牛耳られることなく、作物を販売するルートがいくつも生まれている。
ある程度のパソコンを扱う知識を持てば、自分の流儀で、販売できる。
農協や大手スーパーに対しては、全くの非力な存在だったが、ネット内では、自分の流儀で、規格に煩わされることもなく販売できる。
地方(田舎)の役所では、農家のネット販売を支援する制度を立ち上げるべきだ。
また消費者にも嬉しいことに、小売り販売では、食べ頃直前に、収穫販売ができる。だから美味しさを優先できる。
農協や大手スーパーは、大量販売に合うように規格を強く求めたので、規格外は商品にならなかった。例えば、曲がった茄子はダメ、曲がったキュウリはダメ、大きすぎる魚はダメ。トレイに収まる形と大きさが求められる。でも、ネットでは、丁寧に説明したら、規格外でも立派に商品になる。
だから、ネットでの小売り販売は、業者良し消費者良しである。更に、ネットは、今まで販売ルートを見出だせずにいた、素人の趣味での製品を売ることができるになった。年齢も関係なく、住む場所も関係なく、有形無形関係なく、数量関係なく、売手になれる。
私は、これを「新しい資本主義」(個性が生かされる、個人が優先される資本主義)だと思っている。一人一人が、何らかの形で、販売ルートを持つことができることが。今までの大手の、大企業の、大量生産から、個人個人が、独自性、個性を生かせる、生産物を販売する場を持てる小売りの時代の到来だと。それに伴って、個性を磨くことを主眼とする教育制度の設立が望まれる。

野党が活きる道

自民党、このちっぽけな自民党(とコバンザメのような公明党)が、政治を司っても、曲がりなりにも、日本は動いている。野党は、このちっぽけな自民党を批判することに一生懸命である。
自民党はと言えば、国民を見ることもなく、ただひたすらおのれの欲望を果たすことに一生懸命である。
国民から見れば、野党は、そのちっちゃな生き物を棒でこつく、どうでもよい存在にしか見えない。
どちらも、国民を活動の中心に据えていない。
国民からすれば、舞台の隅で、こつき合いをしている猿にも見える。

努力のいらない第一言語と努力のいる第二言語。

幼い子ども達は、努力をしないでも、生活の中で、自然に、言葉を習得して行く。それに対して、大の大人が、第二言語を習得するのに四苦八苦しながら努力をしているのに、敢なく撃沈している。
WHY?! 何故なんだ? 大人達は、子供達よりも劣るのか?
答としては、子供達はボトムアップ方式で知識を吸収しているが、大抵の大人達はトップダウン方式で知識を吸収する。
「ボトムアップ方式で知識を吸収」とは、感覚器官から「自然に」入る情報を受け入れることである。知識は、「注意、好奇心を向ける」と、優先的に感覚器官に入って来る。逆にそうでない情報は消滅する、つまり情報は自然淘汰される。脳は、優先した感覚情報を自動的に大脳新皮質にまで送り届けて、しかも整理整頓、分類、体系化までしてくれる。整理整頓、分類、体系化は、レム睡眠中に処理される。寝る子は(脳も)育つである。
余談だが、成長ホルモンが分泌されるのは、その夜最初に訪れた深い眠り(ノンレム睡眠)の時である。なお成長ホルモンは、メラトニンによっても分泌が促されるので、メラトニンの分泌量が多くなる深夜1時から3時の間に深い眠りに入っているのが最適解である。
つまり、レム睡眠は知識の成長をもたらし、ノンレム睡眠は身体の成長をもたらす。
話を戻すと、それに対して、「トップダウン方式で知識を吸収」とは、前頭前野が主導権を取って、意識的に、計画的に、知識を獲得しようとする。勿論、知識は感覚器官からしか入りようがないが。つまり、努力によって、強制的に脳を働かせようとする。
所が、脳は、注意、好奇心を向ける事柄を、優先的処理をする。だから、第二言語の習得に余程の必要性という動機がない限り、努力は続かない、つまり必然的に途中での挫折が待っている。
注意や好奇心は、知識吸収に取って、最強の武器である。子供達は、遊びという手段で、好奇心を向けながら、知識を吸収し続けている、あたかも電気掃除機がホースを向けると、その場所のゴミを吸い取るように。
となれば、親達が、子供達を強制的に勉強させることのダメさ加減が了解できるだろう。
最後に、もう一つ。瞑想や座禅は、注意力、注意機能を鍛えるという面を持っている。注意の深さ、持続力、注意を一つに定める固定(ロックオン)力を鍛える。注意力が脳を自在に働かせる肝である。

100分de名著、ギュスターヴ・ル・ボンの“群集心理”の二回目を視聴しての感想

参考)「100分de名著、ギュスターヴ・ル・ボンの“群集心理”の一回目を視聴しての感想」
一回目で、脳を「意識」と「無意識」に分けた。群集は、その内で無意識部分に相当する。
今回は、脳を三つに分けてみる。一番底辺は、「腹」である。エネルギーがドロドロと、マグマのようにたぎっている。そこには、不満、イライラ、ワクワク、何だ何だ、などの潜在的な活動性、未だ方向を持たないエネルギーのるつぼである。その上には、「感情」の層、「心」の層である。嬉しい、悲しい、楽しい、面白いなどなど。この層は、既に方向性を持っている。ただ自分という視点を持っている。
最上階は、「知性・理性」である。この層も、方向性はぼんやりとしている。そして、自分という視点も薄れている。
不満、イライラ、ワクワク、何だ何だ、などの潜在的な活動性、未だ方向を持たないエネルギーをうまく、社会化、社会性のある事柄に使えない人々が、群集となる。群集という形でその中に自分を溶かし込む。
そこに、リーダーが、標語やスローガンを掲げると、群集にエネルギーを流す方向性が与えられる。しかも、群集は意識、知性、理性を置き忘れている。流れのままに従う。
これは、野生の馬や羊の群れでは、一頭が走り出すと、群れ全体がその一頭に後追いする、何も解らぬままに。
一人一人が個人の時には、意識を働かせバラバラであるが、集団や群集になると、志向性の意識を切って、その下にある受動性意識に引き下げる。これを時に空気を読めよと言われる(志向性意識を消す)状況に引き入れる。空気を読むレベルに引き下がる。そこから更に引き下がると、群集に近づいて行く。感情(心)すら押し殺し始めると、腹のマグマだまりに行き着く、落ち込む。

100分de名著、ギュスターヴ・ル・ボンの“群集心理”の一回目を視聴しての感想

一回目は、群集心理のメカニズム。
脳は階層構造を成している。大きく分けると、意識と無意識とに分けられる。
意識は陸、無意識は大河。陸では自由に動けるが、大河では流れに飲み込まれる。
意識は催眠術師、無意識は催眠にかかっている人々。意識は自分で操れる思考、無意識は自動で進んで行く夢。
思想では、意識側が個性(志向)、無意識側が集団(志向)である。
我々は、集団化すればする程、集団志向になる。同調圧力が強くかかって来るから。
羊や馬や牛などは、元々集団志向の強い生き物である。というのは、個人個人がバラバラであるよりも、強い存在に太刀打ちできやすいから。
意識は、その時々で、適切な判断を下そうとする。
無意識は、過去の行動パターンや他人の行動パターンをそのまま真似しようとする。
牛馬羊では、判断は、群れの中の意識高い系に任せて、群集はそれに付き従おうとする。その方が、自己判断よりも生き延びる確率が高いだろうと考えて。
意識と無意識とを端的に表すのが、新しい事柄である。新しい事柄に対しては、無意識は全く無力である。高齢者が新しい事柄を苦手とするのは、意識機能が劣化しているからである。
慣れた事柄は、スィッチさえ入れれば後は自動運転してくれる、例えば、自転車乗りのように。
新しい事柄に取り組むには、意識が必要不可欠である。高い意識レベルを保ち続けるには、エネルギーを大変沢山必要とする。車で例えるならば、無意識レベルが時速40kmとすると、意識レベルは70とか80kmに当たるかもしれない。
集団志向、集団生活を営む人間にも、集団が形成されると、必ず群集心理が頭をもたげる。

100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の四回目を視聴しての感想

私は、「戦争は女の顔をしていない」という著者に対してというべきか、解説に対してというべきか、うまく捉えられない。
結果、一回目に関しては、ブログを書けなかった。二回目になってようやく、意味記憶、エピソード記憶として捉えることができたように思う。
両者の違いを図式的に表すと、
男=意味記憶=知性、理性=事実で構成される歴史=天なる神=理想=規律=切り分ける=競争
女=エピソード記憶=感覚、感情=出来事で構成される小説=地なる自然=現実=愛=取り結ぶ=平等
このように図式化すると、戦争は女の顔をしていない、のは納得できる。
世界を丸ごと捉えるには、男の知性と女の感性が不可欠なようだ。

思考的に思想的に、トップダウン(全体優先)とボトムアップ(個人優先)

自民党は、基本姿勢はトップダウン(強者優先)であるが、党員の声も聞くというボトムアップ(弱者救済)の方式も取り込んでいる。
このボトムアップ方式が、自民党人気を下支えして来た。
だが、小泉政権からか、トップダウンが余りにも優位に立ち過ぎていく。これは安倍政権になってより強く打ち出され、更にそこに政治・政権の私物化が加わって来た。今の菅政権ではトップダウン方式と政治の私物化とが頂点に立ってしまった感ありである。
結果、今や政権による政治手法はトップダウンのみになった。しかも政策について何の説明もない。ただ黙ってついて来いである。そのために、国民との乖離が甚だしい状態にある。つまり、国民の声が聞こえない聞かない政権は、完全に「裸の王様」である。
裸の王様である菅首相は、政権内部に耳を塞いで綴じ込ったバブルの中に居続けているが、いつこれがはじけるのだろうか。またこのバブルを破裂させるのは誰あるいは何なのだろうか。

100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の三回目を視聴しての感想

参考)「2021-08-17
100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の二回目を視聴しての感想」

前回の二回目では、意味記憶とエピソード記憶について感想を述べた。
三回目では、エピソード記憶を小さな物語、意味記憶を大きな物語という言葉が使われた。
意味記憶=大きな物語=集団(組織=システム)視点の思考。
エピソード記憶=小さな物語=個人視点からの思考。
ここまで書いて来て、この前の作品、「NHKテレビ番組100分de名著」「ボーヴォワール」の「老い」」を思い出してしまった。「老い」で扱われたテーマが差別だった。集団の視点からは、老いがあってほしくない状態として、差別された。
今回の「戦争は女の顔を~~」でも、三回目は戦争に参加した女性への差別がテーマとして扱われている。集団組織国家の視点から戦争に参加した女性は嫌わせる存在として差別された。つまり、意味記憶の視点から戦争に参加する女性は、平時の視点からは疎ましい存在なのである。
戦争に志願兵として参加した女性達は、戦争中では、評価される存在であったが、平時にあっては、疎ましい存在と見なされる。特に、戦争中の悲惨さ(小さな物語)を語られることは、集団組織国家側からは、いらだたされる存在となる。集団組織国家側からは、集団組織国家側を鼓舞する、喜ばせる大きな物語を求めた。
差別は、必ず集団組織国家側からの視点に立って、つまり、集団組織国家側という優位に立っての視点から、つまり集団組織国家側に同一化した上から見下ろす地点に立っての判断から生まれる。
最近、DaiGo氏の炎上が止まらないが、彼の視点から、ホームレスと生活保護受給者を見下すような発言だった。
彼は、カリスマのような、教祖的な存在として、上から見下ろす視点が常態化してしまったのだろうか。
集団組織国家側に立って集団組織国家側と同一化すると、集団組織国家を維持・運営する視点から見てしまう。そこから差別が始まる。

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100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の二回目を視聴しての感想

100分de名著、アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”の二回目を視聴しての感想。
この一回目を視聴して、感想が書けなかった。何故なのだろうかと考えた。
このようなテーマ(戦争の中の女性)を考えたことがなかったから。このテーマが私の今までの知識、経験体系の中へ収まりをつけられていなかったから。このピースを私の知識体系のどこにしっくりと収まるか。馴染んで行くのに時間がかかったから。
話は変わるが、最近、DaiGo氏が、炎上している。メンタリストだという氏。何故炎上したかを考えた。彼が、意味記憶から思想を紡いだからではないかと思えた。意味記憶に対して、エピソード記憶がある。エピソード記憶とは、全ての人々にとって個別具体的な経験記憶のことである。私の飼っていたナナという犬、街で見かけた老いた汚れた雑種犬、などなど。それに対して、意味記憶は、犬とはと語る思想的言葉記憶。
DaiGo氏は、意味記憶から個人の感想を述べた。これは単なる個人の感想だからねという言い訳を添えて。彼には、単なる個人の感想を批判されても、これは単なる個人の感想だからね、で逃げきれると思ったのだろう。
意味記憶からは、思想が紡ぎ出される。ここで先ほどの、「アレクシエーヴィチ“戦争は女の顔をしていない”」に話を戻す。戦争は、意味記憶から紡ぎ出されて、それに乗っかって、始まる。しかし、この著書に登場する女性達は、全てエピソード記憶を語っている。戦争中であっても、戦場の中にあっても、個人的なエピソードが記憶されていく。
意味記憶は、男に思想を吹き込むかもしれないが、女の心を打たない。エピソード記憶は、男を退屈させるかもしれないが、女の心をワクワクさせる。
勿論、私が使う「男」や「女」という言葉は、意味記憶なのだが。
所で、意味記憶と言えば、菅首相を思い出す。菅首相は、本当に意味記憶からしか言葉が発せられない。その極端さは際立っている。彼にエピソード記憶はあるのだろうか。
追記)「愛は深い」は意味記憶から。「犬が必死で溺れる子猫を助け上げた」はエピソード記憶から。

炎上中のDaiGo氏について、彼の勘違い

DaiGo氏が火だるまである。彼は、ある程度の炎上を見越した上での発言だったのでは、と思えた。彼は、個人的感想を述べたに過ぎないという感じだったのだろう。それで、切り抜ける気だったのではないだろうか。
だが、彼はとても影響力を持った存在である。影響力を持った存在としての責任を忘れているのではないか。
彼はその影響力のお陰で大変な収入を得ている。
だから、影響力行使には大きな責任が伴う。
と言うのは、彼の言動を、教祖的存在として、指導者として、仰ぎ見ている者もかなりいるだろう。
彼には、そのような存在としての責任に気づいているのだろうか。
だから、個人的感想を述べたに過ぎないというのは、社会が許さない。