真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

死刑と心の揺れ

[死刑確定と死刑執行]
◎極最近、小林薫の死刑が確定した。もうそんなに経つのかと思えるが、宅間守が死刑執行された。宮崎勤は今年2006年2月死刑確定した。三人とも、世間の、社会の親を、特に母親を震撼させた凶悪犯罪者である。今日は死刑について考えたことを述べたい。
[理想は死刑廃止だが]
◎私は死刑に対して、こうだとはっきりした断定的意見を持っていない。心は千々に乱れである。理想論(すべての者は仏性を持つ)としては死刑廃止であるが、現実に自分の子どもが殺されても、死刑廃止を叫べるほど断固たる意思を持ってはいない。
[我が子を殺されれば]
◎我が子を殺した殺人犯に死刑を要求しないなんて、嘘はつけない。たぶん、あいつが死刑にならなければ俺が殺してやると、叫ぶに違いない。これが本音である。"理想"と"本音"は対極にあるといってもよい。
[現実主義]
◎私は現実主義である。別な言い方をすれば、現実を肯定しつつも、否定するという立場である。つまり、矛盾的自己同一(相反する態度が同居する)である。
[現実を受容する]
◎もう少し違う言い方をすれば、現実(現状)を受容するけれども、肯定はしない。えっ、でも今さっき、肯定するといったじゃないか!!。とヤジが飛んできそうですが。
[二種類の肯定]
◎その辺を説明すると、私は肯定に二種類あると思う。現状を良しとして、このままで満足だという肯定。つまり、満足の肯定。
[確率論的肯定]
◎もう一つの肯定は、事実としては認めるが、このままで満足というのではなく、さらに良い方向へと推し進めるという含みを持った肯定。含みを持つ肯定。"どちらかといえば肯定かな"、という確率論的肯定の仕方である。
[受容は中立的立場]
◎それに対して、受容は、事実としては認めるが、それに対して評価や判断(賛成や反対)は下さないという中立的立場。ありのまま(あるがまま)を受け止める(受け入れるのではない)というやり方である。ストライクであろうと、ボールであろうと、投げられたボールは受ける。
[段階的推移]
◎それらを図式化すると、①満足の肯定→②含みを持つ肯定→③受容(拒否なしの無評価)→④含みを持つ否定→⑤完全否定。というような五段階のグラデーション(段階的推移)が考えられる。
[どちら側から見るか]
◎死刑については、先ずは、どちら側から見るかという視点で、大きく違ってくるだろう。遺族(被害者)側からすれば、自分の親や子どもが殺されたのに、殺した側が十年ほどで出て来る。そして刑務所で過ごしたことによって、罪は償われたとして一般人として扱われる。だのに、自分の親や子どもはもう戻って来ない。この落差の違いへの憤り。
[償いや和解を重んじる側]
◎方や、加害者の更正、未来に目を向けようとする側(弁護士や宗教者に多いように思う)にとって、未来を断ち切る死刑(人間が人間を裁く不遜さ)は反対せざるを得ないだろう。償いや和解を重んじる宗教にとってはそうだろう。
[理想と現実]
◎私は以前に"理想と現実"ということでブログを書いたことがある。どちらかといえば、理想は机上の理論から出ることが多く、現実は日々の感情を踏まえた事実から生まれる。現代は、いつの時代もだが、理想と現実は大きくかけ離れている。
[どちらも併存]
◎私たちの中にどちらも併存しているのではないだろうか。どちらも心の中の事実として。ヨーロッパ圏は、"Yes or No"の二者択一思想であるが、東洋は、グラデーション(段階的推移)の世界である。曖昧さ、中庸、中道を重んじる世界である。
[揺れがある]
◎だから、私たち東洋人にとって、その日によって、その時の気分によって、周りの雰囲気によって、揺れがあってもそれは仕方のないことだろうと思う。題名が指し示す、"心の揺れ"は死刑囚の心の揺れではなく、私の心の揺れのことです。
[二者択一]
◎よく、お前はどっちなんだ、賛成なのか、反対なのかと、詰問する人がいる。二者択一を要求する。私がどちらとも返答しないと、はっきりしろとまた要求する。
[五者択一]
◎賛成でもあるし、反対でもあるんです、というと、何を言ってるんだ、はっきりしろとまた要求する。私は、二者択一ではなく、五択(五者択一)なんですと、返す。
[ご託を並べる]
◎すると相手は、そんなご託を並べるな、と切り返す。ここはダジャレのコーナーでした。
[矛盾的自己同一]
◎しかしながら、現実世界(理論に対して)では、二者択一と割り切れる事柄はない。今"ない"といって割り切ってしまったが。これは自己矛盾であるが、すべては矛盾的自己同一です、と逃げを打つ。
[死刑をどう思うか]
◎皆さんは"死刑"をどう思われますか。