真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

老人介護と子育て

[お坊さんのすごい修行]
◎私は、禅宗に関心を持っている。といっても、修行しようなどという気はさらさらないが。でも、禅寺でのお坊さんの修行をテレビなどで見て、"すごいな"と感嘆する。
[全力投球の日々]
◎朝早く、"3時"とか"4時"とかに起きて、庭掃除、部屋掃除、薪割り、炊事、洗濯、読経、などに、もちろん座禅にも全力投球する。座禅のあの座り方はまさに拷問である、15分も続ければ目が飛び出そうなほど痛い。
[先送りの不精者]
◎それにひきかえ、楽しい楽なことには手が出るが、しんどいといえる仕事からは逃げたくなる。また、私は一日8時間ほど寝ないと起きられない不精者である。寒い日などは、後10分、後5分と起きるのは先送りにする。
[人間は先送りが大好き]
◎人間は先送りが大好きな動物である。政治家の大好物の品物でもある。自分ができないことを他人には要求する、都合のいい動物でもある、それはあなたのことだ、と陰の声。まさにその通りです。
[羊頭狗肉のタイトル]
◎という前振りはこの辺にして、本題に入る。本題は、"老人介護と子育て"ではなく、"修行"である。でもタイトルは"老人介護と子育て"なのですが。まさしく羊頭狗肉(ヨウトウクニク)、苦肉の策です。
[老人地獄]
◎これからの世の中、老人が増加の一途をたどり、老人天国、いや違った、老人地獄が生まれる。もう老人が四人に一人の割合である。石を投げればごつんと老人に当たる。ごめんな。
[物忘れが激しい]
◎そういう、私も"60才"一歩手前である。物忘れが激しい。お茶を入れた湯飲みを置いて、違うことをすると、その湯飲みをどこへ置いたか忘れる。置いたか忘れるのは、老いたからである。それはおいたわしい。と、ダジャレを連発する。
[老人は動作や頭脳が機能不全]
◎中振から話を元へ戻すと、老人は動作や頭脳が機能不全を起こし始める。介護が必要となる。しかし、介護をする人間がどんどん減っているらしい。介護は重労働で低賃金であるからだそうな。東南アジアからの派遣を期待したい。法整備を急いでほしい。
[じれったい、もどかしい]
◎ここからが本当の本題(じゃ、今までは偽物?)である、ずいぶん引っ張りましたが。介護する側は、その機能不全がじれったくなる、もどかしく感じられる、とろくさいと思える。もちろんすべての人がそうではなく、ごく一部の者であるが。
[イライラ、ジリジリ]
◎その結果、イライラ、ジリジリが湧き上がってくる。私自身も、母親を介護した経験からそのことは理解できる、親子の場合特に激しいようだ、(言い訳)。過去のもやもやがその時とばかり噴出してくる。
[動作や頭脳が機能未成熟]
◎子育てにおいても、同じことがいえる。老人の場合は動作や頭脳が機能不全を起こし始めるのだが、生まれたての赤ん坊の場合は、動作や頭脳が機能不全からスタートする、大人を基準にすればであるが。
[余裕がなければイライラ]
◎だから、老人と子どもは、介護する側、子育てする側よりも、さまざまな点において劣る。余裕が持てなければ、その劣ったところにイライラが湧き上がる。これは自分に対しても、相手に対しても同じである。
[一斉という集団生活]
◎これはどこから来るのだろうか。私たちは数才くらいから、一斉という集団生活を、家庭、幼稚園、小学校、中学校、高校、(大学)、職場で、要求される。
[一斉を強く要求する集団内でイジメ]
◎一斉にするという要求を満たせない場合に、イジメ、侮辱、などが返ってくることもある。一斉を強く要求する、集団、団体、最高責任者においては、それがなおさら強く返ってくる。穏やかな、和やかな雰囲気の集団内では、イジメなどは起こりにくいようだ。
[穏やかな集団では手助けが返ってくる]
◎逆に、そのような穏やかな職場、集団では、介護、介添え、手助け、などが返ってくることも多いだろう。せかされることがないのだから。何をぐずぐずしているの、早くしなさい、さっさとしなさい、などなどと。
[常に焦りの態勢]
◎そのように、せかす環境で育った者に、イジメ、侮辱、糾弾的行動が起こりやすいようだ。常に焦りの態勢(神経ピリピリ状態)にあるのだから。そこで考えてほしいのが、お坊さんの修行である。どう関係があるのだとヤジが飛びそうだ。
[修行に打ち込むべき]
道元が中国に留学に行ったとき、船内にシイタケを買いに来た現地の禅僧がいた。道元は、何故あなたが買いに来るのか、あなたのような人は修行に打ち込むべきではないかと、揶揄するかのように問うた。
[日常あらゆることが禅の修行]
◎その禅僧は、日常、あらゆることが禅の修行だ、とやり返した。それを聞いた道元は自分の浅はかさを恥じた。機能不全の老人介護や、泣きやまぬ、おむつの取れぬ赤ん坊の子育ても、自らを成長させる修行だ、ということに気づかなかった自分を。