真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

自由と平等は対立概念?

[民主主義を信奉]
◎私は、民主主義を信奉(believe in)し、それが広く行き渡ることを願っている。所で、民主主義と関連して使われる言葉(フレーズ)は、"自由と平等"である。私は、この"自由"と"平等"とは、並列に並べられているが、内容的には対立概念だと考えた。
[自由と平等]
◎そこで、まずは、ということで、"自由と平等"を、Googleの検索サイトで検索してみた。表示される検索結果(件数)は、112,000件であった。なんとまあずいぶんと多くの人々が思索しているのかと、驚いた。と同時に、極めて重要な、キーワードであるのだなと、あらためて実感した。
[参考サイト]
◎ここに参考サイトとして紹介するのは、検索結果のトップに表示されたものである。参考サイト→永井俊哉ドットコム
[人は千差万別色とりどり]
◎私が、"自由と平等"を、対立概念だと考えた根拠は、人は千差万別、色とりどり、十人十色。能力、個性、興味、受け継ぐものが、人それぞれ皆違うと判断したからである。つまり、生まれ落ちた時点から人皆違うと。
[自由を優先すれば差が拡大]
◎人はそれぞれ皆違うものなので、それを、自由に放置すれば、そこに差が拡大して、時間とともに再生産されるのは、明らかだ。つまり、自由を優先、強調すれば差が拡大する。どんな差がつくかも考えねばならないが、とにかくそれは後で考える。
[平等は何を意味するか]
◎次ぎに、では、"自由"と対置される、"平等"は何を意味するのだろうか。松の種、柿の種、梅の種、ドングリをすべてドングリに変化させること。ドングリの背比べをさせることだろうか。
[個性に目をつぶる]
◎極端な言い方をすれば、今までの教育は、松の種も柿の種も梅の種も、すべてをドングリに作り替えてゆくことだった。それぞれの個性には目をつぶって。みんな仲良く同じになろうと。
[標準化指向]
◎これを平等だとしてきた。これは集団指向、標準化指向である。つまり、個性を殺して、全員を一色に塗りつぶすことだった。これをした結果だろうか、その一色は、偏差値という一つの基準に置き換えられてしまった。
[全員をトップからボトムまで一直線上に]
◎一つの基準に置き換えてしまうと、全員をトップからボトムまで、一直線上に並べ替えられる。しかし、基準をたくさん作ると、全員を一直線上に並べることはできない。
[同じものを与えるのは悪平等]
◎そういうことを考えると、これまでのような、全員に同じものを与えるという平等は、能力、個性、興味が人皆違うのだから、悪平等だともいえる。鳥にも、猿にも、鯨にも同じエサをやるのは、平等とはいえないだろう。
[自由指向的平等観]
◎それ故に、今までのように、皆全員に同じものを与えるという平等観(集団指向)ではなく、これからは、能力に応じて、個性に応じて、興味に応じて、教育を施してゆく、受ける権利を、平等に持たせるという、自由指向的平等観へと転換してゆくべきではないか。
[能力個性興味に応じた教育]
◎自分の能力、個性、興味に応じた教育を受ける権利を平等に与える。そして、その権利を受ける自由を付与する。今までは、国が強制的にこれを学べと押し付けてきた。それが子ども達のためになるという理由から。
[社会的格差の増大を生み出す]
◎だが、自由指向的平等観(子どもの要求に応じて与える)の方式は、金銭を基準にすれば、社会的格差の増大を生み出す、拡大再生産する恐れがある。その理由は、金銭に置き換えやすい能力もあれば、金銭という基準からは、どう考えても損だよといえる、能力、個性、興味もある。
[社会的承認が必要]
◎それ故に、今までの平等観(集団指向)的教育から、自由観(個性指向)的教育へと方向転換するならば、社会的承認を求める必要があろう。
[家庭内で個人教育]
◎でも、現実に、すでに、集団指向的教育に子どもをゆだねることをさけて、個人的に家庭内で、あるいは専門家にゆだねて、子どもを教育している家庭も増えてきた。
[家庭教育だけ]
◎家庭で個性教育といえば、福原愛宮里藍横峯さくら、などはその典型例であろう。あるいは、子どもに学校教育を受けさせずに、家庭教育だけで、東大へ入学させたという事例もあった。
[国民は国からの指導を拒否]
◎国が、いつまでも、集団指向的教育に固執するならば、国民は、国からの指導を拒否して、どんどん家庭教育に切り替えてゆくだろう。そうなれば、裕福な家庭がますます勝ち上がり、貧乏な家庭はますます負け下がってゆくだろう。