真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

反省するとは何をすることか

[山地悠紀夫]
◎飲食店店員の姉妹が刺殺された事件で、強盗殺人や放火などの罪に問われた"山地悠紀夫"は、16歳だった2000年7月、山口市で自分の母親をバットで殴って殺害し、少年院で3年1カ月の矯正教育を受けて03年に退院した。
[人格障害]
◎彼の性格は、"人格障害"(自分自身や周囲に困難が生じるような人格の極端な偏りや異常)である。弁護側では"広汎性発達障害"だと主張した。
[犯行を決意]
◎だが、その後、やけになり、母親を殺害した時に感じた興奮や快感をもう一度味わいたいと犯行を決意した。
[犯行当時の心境]
◎犯行当時の心境について、彼は、"楽しくてわくわくした。ジェットコースターに乗っているような興奮を感じた"。あるいは、"母親を殺したとき、そのもだえ苦しむ姿に興奮したことから、人を殺し快感を得て金品を奪い生活費を手に入れようと決意した"と述べた。
[反省の念はない]
◎山地は公判で起訴事実を認めた。しかしながら、反省の念については、"反省しているかと言えば答えはノーです"と供述した。
[小林薫]
◎また、奈良女児誘拐殺害事件犯人、"小林薫"は、"全て間違いはありません"と起訴事実を全部認めた。"反省の気持ちも更生の自信もない。早く死刑判決を受けて楽になりたい"と供述したとされる。
[宅間守]
◎次ぎに、大教大附属池田小児童殺傷事件の犯人、"宅間守"に関して、ある医師は、彼の性格について、"外の殻が非常に閉ざされている一方、内面は非常に情緒不安定という二重構造で、私の診断では初めてのケース。
[精神が未熟]
◎理性、感情、本能のそれぞれの交流がない状態"と説明した。さらに、"彼の精神状態が非常に未熟で、問題を解決する能力は小学3年生レベル"だという。
[謝罪はなかった]
◎弁護士もずいぶん努力したが、最後まで、本人から謝罪はなかった。
[責任を転化]
◎判決は、彼を、"極端に独善的で自分の非を認めることができず、およそ理解できない論理で責任を転化し、八つ当たり的に他者を攻撃する"人間だという。
[宮崎勤]
宮崎勤についても、謝罪や反省についての記述をネット上で探したが、見あたらず、ここに載せるこことを断念した。
[謝罪と反省の意思表示なし]
◎三人(山地悠紀夫、小林薫宅間守)に共通しているのは、意外と犯行に関しては起訴事実を認めている。しかし、遺族に対する謝罪と反省が意思表示されなかった。本心は分からないにしても。
[謝罪は反省から生まれる]
◎犯罪に対しては、犯人からの謝罪(自分が犯した罪やあやまちをわびる行為)は反省から生まれてくるものだと考えられる。
[言葉や行動の間違い]
◎では反省とは何をすることだろう。意識を自己自身に自分の内面に向けて、過去の自分の言葉や行動について間違いがなかったかどうかよく考える、思い返すことである。
[内向には訓練と成長が必要]
◎極度に外向的な者には、反省、内向は難しいだろう。内向はある程度訓練が必要なのではないかと思う。内向できるにはある程度の心の成長が必要である。
[判定には二つの基準]
◎次ぎに、"間違いがなかったかどうか"判定するには、正しい基準と間違い基準との二つがあって初めてできる。つまり、箱が二つあって、その一つには正しいと書かれていて、もう一方には間違いと書かれている。
[箱が一つしかない]
◎反省とは、自分の言動をどちらかに分類して放り込むわけである。所が、彼らには、たぶん箱が一つしか用意されていなかったのだろう。
[正しい基準は社会が提示]
◎ここで、正しい基準とは何だろう。ほとんどの場合、正しい基準は社会(ごく幼いときには保護者)が用意した、道徳とか、法律などであろう。だとしたら、それを学ばなかったり、完全に拒絶したらどうなるだろうか。あるいは心の中から完全廃棄したとしたら。
[よいものだという前提]
◎もっと言えば、正しい基準は元々から自分の中にあるわけではないので必ず外部から取り入れなければならない。取り入れるとは、それが自分にはよいものだという前提がある。正しい基準を受け入れるとは、それを提供する社会を受け入れることである。
[正しい基準を拒否]
◎彼ら三人に共通するのは、社会が提供する、正しい基準を拒否していることではないだろうか。あるいは、もともとから自分が唯一の基準であったのかもしれないが。
[自分という唯一の基準]
◎結論を言えば、彼らには自分という唯一の基準しかなかったので、間違っていたとの結論は出てこなかったのだろう。それ故に、謝罪も出てこなかったのだろう。形式的にでも、謝罪や反省を示せば、それは社会を取り入れたことになる。
[自分を唯一の基準とする者の増加]
◎このように考えると、これからも"自分という唯一の基準"しか持たない者が増加してゆくだろう。