真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

問題をどう見るか

[問題が山積]
◎世の中には、いや世の中という広くを見回さなくても、自分の目の前に、自分の足元に問題が山積している。私はそれを見たくもないので蹴散らかして放っておく。しかし、蹴散らかしても風はまた私の前に吹き戻す、落ち葉のように。
[問題とは何か]
◎所で、"問題"とは何だろうか。辞書では、"解決や処理しなければならない事柄"、という。問題は風邪のように、放っておくと、こじらせて熱が出て、下手をすると肺炎になる。
[解決できない事柄]
◎問題は、やはりテキパキと解決や処理しなければならない事柄である。あらためて、問題とは、過去経験や今持っている知識を当てはめることによっては解決できないような事柄である。
[未知の方法を見つけ出す]
◎つまり、自分の持ち駒だけでは解決できない事柄である。問題解決には、新しい解決方法、未知の方法を探し出さねばならない。問題を解決するとは、未知の方法を見つけ出すことである。見つけ出しただけでは解決しないことも多いが。
[山よりでっかいシシ]
◎山よりでっかいシシは出ん。ということわざ(?)がある。今、山を"解決できる(能力)範囲"と置き換え、シシを問題と置き換えると、解決できる範囲を超えた(つまり、解決できないほどの)問題は出ない、となる。
[問題は解決可能]
◎極論すれば、"問題だ"と認識できた時点で、その問題は解決可能であるという論理になる。問題は、範囲を限定する、切り取る、枠作りをすることである。四面霧に囲まれていれば、問題を切り取れない。
[眼前にヒマラヤの巨大な山肌]
◎ある逸話。ある一行(中高年者集団)が道案内人を先頭にして、ヒマラヤを目指して歩いていった。何日もかかったある昼過ぎ、一行の何人かから、"ワアー"と悲鳴とも感嘆ともつかない声が漏れた。雲が突如晴れて、眼前にヒマラヤの巨大な山肌がそびえ立ったそうである。
[神の心を持つ]
◎次々に感嘆の声が漏れる。しかし、一行の中で一人だけ山が見えない人がいた。どれほど目をこらしても見えない。みんなが喜びの声を上げるのに、自分だけ見えない悔しさ。その時、案内人が、"あなたは神の心を持っているんですよ"、と慰めてくれたそうである。
[視界全体がおおわれる]
◎視界全体が完全に山でおおわれると、それが山だとは気がつかない。他のものが混じって初めて認識できる。境界線が見えて初めてものが認識できる。
[心の全面を覆い尽くす]
◎それと同じように、問題の全容さえつかめずに、問題が心の全面を覆い尽くすと、問題が全く見えなくなる。逆に、問題が問題だと認識できた時点で、おぼろげながらも全容がつかめたといえる。
[問題をどう切り取るか]
◎次ぎに、問題をどのように切り取るかという問題がある。例えば、イジメがあれば、イジメ問題を解決したとは、いじめる子といじめられる子との関係を解消することで終わったとするか、それだけでは終わらないとするか、という問題がある。
[捕らえ方]
◎いじめる子にはいじめる理由があり、いじめられる子にはいじめられる理由(いじめる子が勝手に付けた理由であろうと)がある。その理由を解明して、その原因を突き止め、その解決に至って初めてイジメ問題を解決したと捕らえる考え方もある。
[能力次第]
◎すべての問題がそうだと思うが、イジメは糸がからんだ状態だと思う。その絡みをていねいにほぐしていって一本の直線の糸へと戻すことだといえる。それが真の方法だと思うが、自分のその時点での能力次第である。
[すぱっと切り取る]
◎からんだ糸をからんだ部分をすぱっと切り取って残りをつなぐという(ある王様がやった)やり方もひとつの方法だけれども、やはりできればていねいにほぐしてほしいものだ。
[西洋医学]
◎話は飛ぶ。これに関して、西洋医学は、部分を全体から取り出して、その部分だけを扱おうとする。つまり、こんがらがった部分だけを切り取って解決する。手術がその代表的なものである。胃が悪いなら胃だけを扱う。それで胃という。
[東洋医学]
◎それに対して、中国やインドで生まれた東洋医学は、部分を全体の中で扱おうとする。いや、東洋(思想)が、基本的に全体(集団)を扱おうとする。西洋はそれをできるだけ細分(分析)して切り離そうとする。
[対処療法]
◎この考え方で行けば、いじめる子といじめられる子との関係の解消だけで終わるならば、それは西洋医学的対処方法である。対処療法ともいえようか。
[根治療法]
◎イジメの理由を解明して、その原因を突き止め、さらにその解決にいたる方式は、東洋医学的対処方法といえる。根治療法といえるやり方だが、その力量と時間を要求する。
[西洋と東洋]
◎別の言い方をすれば、西洋(医学)は、森(集団・全体)を見ずして樹(部分・個人)ばかり見る。東洋(医学)は、逆に、樹を見ずして森を見るになろうか。個々の樹を軽視して森にばかり目が行くといえようか。とはいえ、東洋医学は常に全体を意識した上で部分を扱う。