真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

優しさと甘やかしと厳しさと

[厳しい指導]
◎子どもは厳しく指導しないと、甘やかすと駄目になるとよく聞く。しかし、厳しい指導をすると言われている多くの指導者は、強引な厳しさだが、その場限りの指導で、その人がいなくなると、その子どもは元の木阿弥(心に届かぬ指導)になる場合が多い。どういう点で、これが厳しい指導というのだろうか。
[最重要は継続]
◎厳しい(例えば大声で怒鳴る)指導であっても、相手の心を変えていくだけの指導力でないならば、さほどの効果はない。指導にとって最も重要なことは継続だと思う。すばらしい刀を作るのに、数回鎚を当てるだけでは名刀にはならない。じっくり腰を据えた打ち込みが必要である。
[甘やかしと優しさと]
◎"厳しさ"の反対は、"優しさ"であろう。しかし、よく混同されるが、甘やかしと優しさとは別ものである。けれども、優しい態度に向けて、"甘やかすな"と、一喝している光景にもお目にかかる。
[向かう受容的態度]
◎甘やかしと優しさの違いはどこにあるのだろうか。一般的には、"優しさ"は、主に心へ向かう受容的態度で、"甘やかし"は、行動のみへと向かう受容的態度である。"片付けをしなさい"といってもしないのを、そのまま許してしまうのは甘やかしである。
[受容と拒否]
◎受容は、受け入れることであり、その反対は、拒否・拒絶である。優しさは心を受け入れる態度であり、甘やかしは行動を受け入れる態度である。片付けをしない行動を許して受け入れるのは決して優しさではない。
[心も行動も受容]
◎例えば、"男だったら泣くな"は、泣くことの拒絶・拒否である。"泣きたいなら泣きたいだけ泣きなさい"と応じるならば、心も行動も共に受け入れている受容である。主に優しさで対応している。この場合は甘やかしではない。甘やかしは義務を果たさないのを許してしまう態度である。
[厳しさは忍耐を要求]
◎"泣くな"との要求は、"厳しさ"(拒絶・拒否)であろう。真の厳しさは"忍耐"(表・外に出さないこと)を要求する。しかし、優しさも、行動を拒絶することもある。"泣きたいだけ泣きなさい"は行動受容の優しさだけれども。
[真の優しさは]
◎例えば、"泣きたい気持ちは分かるけど、今は我慢した方がいいわ"と、優しく言う言葉は、"泣きたい"気持ちを受容しているが、行動は受容していない。真の優しさは、心を受けとめても、必ずしも義務行動までは受けとめない。
[心変われば行動も変わる]
◎心は行動を左右する。つまり、心が変われば行動も変わる。気持ちを受けとめるだけで、行動を止められることも多い。例えば、"腹立つ気持ちは重々承知してるが、今は我慢しなさい"も気持ちを受けとめるが、行動(暴力をふるう)は受けとめない。気持ちは受けとめられるとやがて鎮まる、たいていの場合。
[気持ちを押し殺しただけ]
◎逆に、ガミガミの厳しさは、気持ちも行動も両方とも受けとめない。だから、相手の厳しさから、気持ちを押し殺しただけに終わりがちだ。押し殺すべき相手が立ち去ると、先ほどの感情・気持ちが息を吹き返す。気持ちは温存されたままである。
[気持ちに変化が生じない]
◎このような、外からの規制や他人の目によって、感情・気持ちを押し殺しただけの場合は、気持ちに変化が生じて来ない。このような場合には、必ず相手の気持ちの切り替えまで指導し切らなければ、ただ単に時間を引き延ばしただけに終わる。指導したことにはならない。
[恥は他人の目を意識]
◎日本人は言う、"旅の恥はかき捨て"と。ルース・ベネディクトは、"菊と刀"で、日本は恥の文化で、西洋は罪の文化だという。恥には他人の目が強く意識化されている。だから、外にある他人(知り合い)の目を気にせずにすむ、道中では恥はかき放題だと。それに対して、罪は他人の目の内面化だという。
[他人の目なくても罪意識]
◎他人の目のない所では、恥の気持ちは生じない。他人を強く意識するからこそ恥の感情が湧き上がる。思春期がその最たる時期である。が、他人の目がなくても罪の意識は生じるという。
[自主性の形成]
◎これは、自主性の形成と関係がある。自主性の形成とは自己規制の形成である。フロイトの言う、超自我(衝動や自我の働きを、道徳・良心などによって抑制し道徳的なものに向けさせる機能)の形成である。
[心の階層構造]
◎これは、心の階層構造とも関係がある。自分(自我や気持ちや感情)の上位に、自分を制御・規制・抑制する存在を形成することである。それが、神であっても、仏であっても、怖い鬼であっても、超自我であっても構わないが。自分を叱りつける上位の存在。
[上位の存在を形成]
◎とにかく、内面に、自分を規制する、さらに上位の存在を形成させなければ真の指導とはいえない。だから、要は、態度が厳しいか優しいかが問題なのではない。相手の中(内面)に、自己規制能力を育てる指導をしているかどうかである。昔は宗教がその任務を引き受けた。今はそれを学校に求める。
[自己規制能力]
◎自己規制能力は、数回厳しく指導したくらいでは絶対に育たない。継続は力なりである。だから、行き当たりばったりのしかり方では目的は達せられない。釘を打ち込むように、繰り返し繰り返し心(シンとも読める)に達するまで継続しなければならない。