真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

人生の三段階を上昇する

[自我をめぐって]
◎私の人生課題(ライフワーク)は"成長"である。人がどのように成長するのかという道筋にとても興味がある。ということで、今回はブログ題に、"人生の三段階"と付けた。それは、人生を、自我をめぐって、自我が確立するまでの時代と、自我確立後の成熟時代と、自我を抜け出して更なる飛躍を果たす時代とに分けたかったからである。
[人生の三段階]
◎私は人生はこのように進むと感じる。大まかに言えば、自我が確立するまでの"成人前"と、自我確立後の"成熟"する"壮年期"、そして"自我を抜け出す"高齢期である。しかし、一人一人の進歩は本当にさまざまであるから、一概には言えない。まさに千差万別。
[自我]
◎"自我"は精神分析から来た用語である。"自我"(エゴ)とは、意識層の中心(ハブ)の機能である。これは、"イド"から来る要求と"超自我"からの自己規制とを受け取って、自分を現実社会に適応・妥協を図る機能である。
[精神分析に納得できない]
◎しかし、この考え方では社会を超越した人物像が描けない。実際には、社会を超越した人物はいっぱいいる。宗教は社会超越を目指す。ということで、私はこの精神分析には納得できない。また、もはや時代はこの思想を置き去りにして見捨てているように思う。
[イド]
◎話題を戻す。視床下部の働きと関係がある"イド"は、無意識層の中心の機能である。感情、欲求、衝動をそのままの形で自我(知性)に伝える。それを例えれば、エネルギーとエンジンとであろうか。汚れなき(自我からの無体な要求と抑圧がない)イドであれば、天真爛漫、天衣無縫といわれる振る舞いをする。最近そのようなタイプを"癒し系"と呼ぶ。
[癒し系]
◎私たちは心のきれいな人に接すると癒される。人でなくても、出来事でも、生物でも構わない。とにかく、きれいなものごとに接すると、あたかも体内の毒素を吸い出してくれるように癒される。今、人工に取り巻かれた私たちはそのような癒し系を希求している。私たちは心を洗ってくれるものに飢えている。
[超自我]
◎また、話題を戻す。前頭葉の働きと関係がある"超自我"(スーパーエゴ・理性)は、規則、道徳観、倫理観、自己規制を自我に伝える。車に例えれば、超自我は交通法規であろうか。それで行けば、自我は運転手であろう。この超自我機能がイドや自我を強く抑えつける(強権発動する)とき、自我がイドの要求をかなえることができずに、超自我(具体的には時に親や指導者や社会)に向けて防衛機制(言い訳や嘘やごまかしなどなど)を張り巡らす。
[階層構造]
◎これらイド・自我・超自我を単純化して層(階層)構造として捉える。イドの上に自我があり、自我の上に超自我が層構造としてあると。
[脳は上へ積み上げられる]
◎事実、脳は進化的に上へと積み上げられてゆく。イドが視床下部の働きと関係があり、超自我前頭葉の働きと関係があるならば、層構造と見てもおかしくはない。ここで自我の脳部位が特定されていないのには訳がある。それは後ほど。
[階層が存在しない群れ]
◎話題を変える。群れと集団とを私の独断で区別する。羊やネズミなどの群れ(フラット構造)には構造的に明確な上下階層(社会階層)が存在しない。たまたま先頭を行くものに群れ全体が自動的に後追いする。しかもその先頭は時々によって入れ替わる。時に有能なリーダーが現れるようであるが。
[上下関係の階層構造を持つ集団]
◎それに対して、オオカミやサルなどの集団は明確な上下関係のある階層構造を持つ。しかもある程度の役割分担が存在する。階層構造を持つ集団であれば、上は下に対して(命令・禁止など)権限を持っている。
[集団内地位が目線の高さ]
◎そういう点で言えば、階層構造を持つ集団に所属すれば、集団内の所属する地位がその人の精神的地位(目線の高さと精神的情報的視野の広さ)になる可能性がかなりあるといえる。それ故に、その地位に甘んじる者は出世(上位階層への昇進)しない。常に、目線を高く保たねば。
[上は下に権限を持つ]
◎上は下に権限を持つとすれば、超自我は自我に対して直接の権限を持つ、社会(機能)が個人に対して持っているように。また、自我はイドに対して直接の権限を持つ。ということになれば、自我は悲しき"中間管理職"である。
[心の中心は自在に移動]
◎この事態への苦肉の解決策といわれるかもしれないが、私は心の中心(芯)は自在に移動すると考える。心は時に超自我に味方して、道徳に従うように促したり、はたまた、酒が入れば、超自我や自我機能は弱まり、イドが我が物顔でしゃしゃり出る。翌朝には、自我がその失態に頭を抱えるという事態に陥る。時には、イドがしでかした事態を自我は全く記憶していないこともある。
[下から上にまで貫く軸]
◎私は自我(というよりも意識・心の中心)は、イドという土壌に根を下ろしてどんどん上へ向けて伸びてゆくものだと考える。そして、超自我(現実社会)をも突き抜けて成長するものだと思う。ジャックの豆の樹のように天(宗教心)にまで達するかもしれない。自我はジャックの豆の樹のように、下から上にまで貫く軸ではないだろうか。
[自我が超自我を超越]
◎だから、自我が超自我を超越するというのもおかしな言い方だが、例えれば、プログラム制作者が、制作規則を熟知し(無意識的に適用でき)ていれば、それに外れることなく、自在にプログラムを組むことが出来ると。そうなればもはや、超自我(規則)はその人を悩ませたり、うるさがらせたりするものではあり得ない。
[イドも自我も超自我も渾然一体]
孔子は、その心境を、"七十にして心の欲する所に従って、矩(ノリ)を踰(コ)えず"、と語った。矩は一切合切の規則であろう。心とは、イドとも自我とも取れる。しかし、イドも自我も超自我も渾然一体となってしまっているのだろう、孔子の心の中では。宮沢賢治の言葉を借りれば、"私はそういうものになりたい"。