真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

サラリーマンから職人へと回帰すべき時期

[柳沢厚生労働相は失言大臣]
柳沢厚労相は、メディアには有り難い存在である。とはいえ、氏は失言大臣なのか。"仏の顔も三度"("産む機械"、"健全"、"労働時間だけ")である。工場労働を、"労働時間だけ"が売り物、と参院厚生労働委員会で答弁した。たぶん、根は正直な人なのだろう。言って失礼だが、可哀想になってくる。だが、それでは厚生労働大臣としては失格である。余りにも見識が無さ過ぎる。
[ホワイトカラー・エグゼンプション制度]
◎今日はそこが論点ではないのでそこまでにする。氏の発言は、日本版"ホワイトカラー・エグゼンプション"制度の趣旨説明中の発言であった。その制度は必要であるが、経済界提案の、年俸"400万"以上に適用、というのは異常である。ほとんどの(月給30万以上の)社員は残業代が無くなってしまう。
[能力で評価すべき時期]
◎とはいっても、日本も能力で評価すべき時期に来ていることは確かである。そして今までは主に"労働時間"が基本物差しであった。それを柳沢厚生労働相は差別的な発言におとしめてしまった。不遜な言い方になるが、今回の私の記事は氏の代弁的発言である、たぶん。
[能力評価システム]
◎だから、論旨は、物差しを"労働時間"一本槍から、"能力"へ軸足を移動させようということである。これには私は大賛成である。しかし、大前提となるべき、"能力をどのように評価するのか"という"システム"が全くといっていいほど構築されていない。システムを構築してから、かの制度を実施すべきである。会社を設立していないのに、従業員を雇うようなものである。
[対象者の絞り込み]
◎話題を飛ばす。広告業界では、今まで見てほしい対象者を余り絞り込めなかった。ネット広告に入っても、バナー広告は同様に対象の絞り込みは出来なかった。それが、検索連動型広告という手法が発明されて、対象者の絞り込みが、焦点付けがかなり出来るようになった。その後はその精度を高める改良段階に入っている。
[能力評価に通じる連動型広告]
◎この広告業界が生み出した、"対象者の絞り込み"という手法が、能力評価に通じると考える。検索語(対象者)と広告(内容)とを、能力と労働者とに置き換えてみる。検索語と広告とを如何にうまく一致させる(顔合わせさせる)かが広告業界の課題であった。その課題は今や大幅に解決されている。
[能力評価システムの構築]
◎ここらあたりをヒントに、労働界も能力評価システムを構築してみてはどうだろうか。私はこの"労働を時間ではなく能力という軸で評価"するのと同じように、教育界も"記憶知識ではなく能力という軸で評価"する時期に来ていると考える。
[教育界も能力評価システムを]
◎教育界も、今までは、偏差値一本槍という評価基軸から、能力で評価するという時代に入っている。しかし、労働界と同様に、教育界でも、能力評価システムを持っていない。いくぶんかは模索しているようだが。
[大きく飛躍できるかどうか]
◎日本がここから先大きく飛躍できるかどうかは、この能力評価システムを構築できるかどうかにかかっている。労働界でも教育界でも、正当に能力評価をすることが意欲を引き出す源泉だと思う。"ホワイトカラー・エグゼンプション"制度もここに中心を置くべきではないだろうか。
[能力の一部だけ評価]
◎教育界における、偏差値も一種の能力評価システムだといえば言い得る。しかし、これは能力のごく一部(知性のごく一部分)しか評価しない。大部分は対象外に捨て置かれている。広告を打っても、大部分が無関心(対象外)である旧式の広告方式(散弾銃方式)と同じように。
[能力は偏差値で測れない]
◎ほとんどの能力は偏差値では測れないので、見出されず開発されずに、"残念ながらあなたには能力がなかったですよ"と、学校から無能者として卒業させられてゆく。偏差値主義の元では、ほとんどの生徒は学校内で無為な時間を過ごさざるを得ない。今の教育制度では能力開発は無理だから。ほんの少しは改善されてはいるけれども。
[教育者の理想的姿]
◎労働界では、この部署ではこのような能力が要求されるという一覧表のようなものが必要なのであろうか。しかし、教育界では、個人個人の中に眠る潜在能力を見つけ出し、引き出し、開発し、開花させてゆくというのが、教育者の理想的姿だと思う。
[基礎なしでは能力開花しない]
◎もちろん、だからといって、知識を吸収し、技術を習得して、心身を鍛えるという方面が不必要であるとはいわない。同じくらい大切な事柄である。否、知識吸収、技術習得、心身鍛錬という基礎がなければ、どんな能力も開花してこないだろう。
[時給的サラリーマンへ堕落]
◎話を労働界に戻す。近年、職業者は、昔のような職人からサラリーマンへと堕落している。柳沢厚労相が言った、"労働時間だけを売り物"という時給的サラリーマンへとおとしめたのは、偏差値一本槍の教育界の評価方式が大きな原因ではないだろうかと思う。
[職場は能力を発揮する機会]
◎どの学校を出た(偏差値による学校序列)かしか評価基準がないのだから、学校教育からでは自分の能力を見出す手だてがない。昔はまだ、親が子どもの能力開発者だった。また、教師は子どもの能力を見出すという教育理念がない。理想的には、仕事・職場は、学生時代に見出した自分の能力を発揮する機会や場であって欲しい。
[子どもから能力を引き出す]
◎話は飛ぶ。英語では、教育を"education"というが、"educate"とは"引き出す"という意味合いを持つ。語源的には、"education"とは、子どもから能力を引き出すことであった。
[教育は能力を発掘開花させる場の提供]
◎教育者は、知識を教える以上に重要視してほしいのは、教育は生徒一人一人の埋もれた能力を発掘し、それを開花させる場の提供であるということである。教えるというよりも引き出す指導がこれからはもっともっと望まれる。
[仕事に自分の能力を注ぎ込む能力発揮型職人]
◎それによって、個々の子ども達は自分の能力を知り、その能力を発揮できる場を探し、自分にあった場(職場)を見つけることによって、時給的サラリーマンではなく、仕事に自分の能力を注ぎ込む能力発揮型職人となるだろう。この段階に来て初めて、ホワイトカラー・エグゼンプション制度が生きて来る。