真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

千利休と秀吉

[茶道は禅的精神]
◎茶道を大成した千利休は禅にも通じていた。それ故であろうか、茶道は禅的精神を多く含んでいる。茶道は禅の求道手段ともなり得る。それで利休について少し調べたので、今日はそれを書きたい。
[千利休は茶道の大成者]
千利休(1522-1591)は、現在の大阪府堺市の生まれである。堺は商人の町、経済的に豊かな町であった。彼は、安土桃山時代(信長入京1568年から秀吉の死1598年まで)の茶人で、茶道の大成者、千家流茶道の開祖でもある。
[若くして茶の湯に親しむ]
◎彼は若くして、当時の堺(港湾都市として発展し明との貿易の根拠地として繁栄)の町衆に流行していた茶の湯に親しんだ。初め茶の湯を北向道陳に学び、さらには村田珠光相伝の侘茶(わびちゃ)を武野紹鴎(じようおう)に師事した。
[禅の影響を強く受けていた]
◎利休は、参禅し法諱を与えられるほどに禅の影響は強く受けていた。禅僧とも親しい交りを重ね、禅の書や画を掛物の中心にすえ禅の枯淡閑寂の精神を簡素清浄な茶道の中に要求した。彼にとって、もしかすれば茶道は禅精神確立のための方便であったかもしれない。
[天下一の茶人の地位を確立]
◎彼は、織田信長と、彼の死後豊臣秀吉とに仕え御茶頭(おさどう)となった。秀吉が禁中茶会を催した時には、利休居士という号を与えられいる。このことで天下一の茶人の地位を確立したといえる。
[茶道の精神性を深化させた]
◎信長や、秀吉に仕えるが、それに満足することなく、他方で、独創的な茶室を完成し茶道を一般民衆の生活の中に溶け込ませていった。というよりも逆に、利休の茶の湯は当時町衆の間に発達したわび茶の伝統をうけつぎ、形式を完成させている。
[茶会にわびの美意識を]
◎たとえば、草庵(イオリ)風の茶室と道具も創造し、茶会にわびの美意識を一貫して取り入れた。このような茶道の精神性を深化させるという形で、現代の茶道の型を構築した。
[秀吉の政治に参加した]
◎ 彼は単に文化面だけでなく、政治の世界でも重要な役割を担った、というよりも担わされたといった方がよいかもしれない。秀吉は利休を単なる茶頭の役にとどめておかずに、秀吉政権を支える政治的に重要な役目を弟秀長とともに担わせた。茶会は人々を集める手段ともいえるのだろう。今でいえば主要国の党首会談。
[戦国の下剋上時代が幕を閉じた]
◎秀吉によって戦国の下剋上時代が幕を閉じた。時代は大きく舵を切った。利休は秀吉の怒りを買い切腹を命じられたが、この出来事は、文化面では、戦国時代から近世への舞台の転換を象徴するものとなった。もはや彼は秀吉にとって役に立つ人物であるよりも、危険人物と映ったかもしれない。
[利休のわびの美意識と秀吉の成金趣味的な趣き]
千利休は禅の影響を強く受けていたので、秀吉に代表される権力からの離脱を考えたであろう。それが秀吉には、自分への拒否、反抗と見えたであろう。秀吉は成金趣味的な趣きが強かったから、利休のわびの美意識は自分への当てつけとも見えたかもしれない。
[利休にとっての当然の帰結が不幸を招いたか]
◎利休の当然の帰結(権力・俗っぽさからの離脱)も、秀吉にとっては離反とも反抗とも軽蔑とも感じられたのではないだろうか。これが秀吉の怒りを買い切腹を命じられた原因かもしれない。直接的原因ではないとしても。
[死を覚悟しての美の追求]
◎しかしながら、利休の茶道が全国展開したのは、秀吉の下に仕えたからであろう。そういう面では、同なじ権力の下に立ったといえる。しかし、彼の強い禅の精神と、美への避けがたい追求がその位置・段階へ留まることを許さなかった。
[死の覚悟しての求道心]
◎もしかすれば、利休のわびの美意識は、死を覚悟しての美の追求であったかもしれない。死の覚悟しての強い求道心であったればこそ人々の心をも打ったのであろうが。それが彼にこれほどまでの名声を授けたのだろう。