真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

親子に頭を強く張られた

[胸を打たれる]
◎今日、私は同じマンションに住む(しかし初めてお目にかかった)お母さんと幼い子供に、自分の至らなさを、どんと大きく胸に打ち込まれてしまった、あたかも大砲玉のように。会った子に教えられである。
[親子連れが乗って来た]
◎ 事の次第はこうだった。今日(2007/4/25)昼過ぎ、自分の住むマンションの、エレベータに一階で乗ると、親子連れが遅れて乗って来た。動き始めた頃、三歳ほどの男の子が、私の顔を見上げながら、"何階に行くの"と聞く。私はそのかわいい質問に対して、"八階だよ"と、答えた。
[何で八階にいるの]
◎そうすると、また私の顔を見上げながら、"何で八階にいるの?"と尋ねられた。私は、"えっ"、と答えに窮した。一瞬の沈黙が広がった。その時、その子のお母さんが、"八階におうちがあるからよ"、と、あたかも私に助け船を出すかのように、いとも簡単に応じてくれた。
[頭の固さに参る]
◎私はおうちのある八階で降りながら、自分の頭の固さに参ってしまった。それにしても、そのお母さんはすばらしい。少々、子供にしかるような口調ながら、子供を抱えるようにして、即答された。私には有り難い、優しい手がさしのべられて、ほっとした。
[思考を停止]
◎八階で降りるという私に、"何で八階にいるの"と、問われて、私は、"何でそんな当たり前のことを聞くんだろう"、と完全に思考を停止してしまっていた。私はその時完全に道に迷ってしまった、霧に取り囲まれたかのように。私は今の居場所を無くしたかのように。
[二点で誤り]
◎ 私はその時、二つの点で誤り(?)を犯していた。まず一つ目は、子供から質問されたのに、その質問へ向けて答えを考えなかった。その問いへと心を向け続けなかった。つまり、気持ちは、頭は、意識は、その質問を斬って返すかのごとく、相手の意図を推し量ることに向けてしまった。
[流れに逆らう気持ち]
◎これは私の頭が無心でなかった証拠であろう。無心ならば、心は素直にその問いへと集中していたはずだからである。ところが、私の心に、相手の意図を推し量るという、流れに逆らうような気持ちがむくむくと湧き上がった、真夏の入道雲のように。
[何でだろう]
◎ もう一つは、"当たり前を当たり前に受けて当たり前に応答する"という、当たり前を、もはや私は持ち合わせていなかった。"当たり前のことやないか"としてしまったために、それを考える、"テツandトモ"のように、素直に"何でだろう"、と思考する方向には進まなかった。これをやらせた犯人は自我である。
[素直な目を失った]
◎そういう点では、私は三歳ほどの男の子の見る素直な目、視点をすでに失ってしまっていたんだろう。当たり前に打ち当たったときには、当たり前として思考停止してしまう。それを改めて深く探ってみようとはしなかった。
[みずみずしい感性]
◎子供のすばらしさは、それを持っていることだ。だから、大人から見れば、たわいないことに見えるかもしれないが、そのみずみずしい感性はいつまでも失いたくないものだ。失わせたくないものだ。老いるとは、"何でだろう"と考える感性を喪失してゆくことだと思う。
[深く深く掘り続ける]
◎ 若さとは、改革心を忘れないことである、持ち続けることである。改革心とは、これでよいという、満足を持たないことである。常に思考の穴を深く深く掘り続けることである。現状維持で満足しないことである。私には、"ここ掘れ、わんわん"、という幼い子供の声が聞こえなかった。
[当然を疑う素直さ]
◎ 改革心とは、大人が持つ、当たり前、常識、当然、を疑う、素直さである。私は、幼い子供とその母親から、頭の後ろを、平手で強く張られた気持ちで、自分のおうちのある八階で、エレベータを下りた。その時、私には、その親子に会釈する心の余裕すらなかった。振り返ってみる余裕すらなかった。
[観音様と地蔵様]
◎ もしかしたら、振り返ってみれば、彼ら親子は、私に向かって微笑む、観音様と地蔵様であったかもしれない。金色に輝く後光が差していたかもしれない。そうでないという、保証もないのだから。少なくとも、私にとっては、それだけの価値のある存在、出会いであった。まさに、一期一会の希有な機会であったのかもしれない。