真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

織田信長誕生の必然性

[功名が辻]
◎今日(も)以前書いた記事の再掲なので、古い話題であることをお許し願いたい。私は妻と一緒に、ほぼ毎週NHKドラマの"功名が辻"を見ていた。今日(2006/04/02)はそのドラマを見て感じたこと、思ったことを述べたい。といっても、俳優についてとか演出についてとかの芸術的な面ではなく、歴史面、特に織田信長の性格についてである。
[織田信長の無慈悲さ・凶暴への嫌悪感]
◎私は以前(若い頃)織田信長の無慈悲さ・凶暴さなどの性格面に対して強い嫌悪感を抱いていた。しかし今回このドラマを見て、彼の無慈悲さ・凶暴さ(特に比叡山焼き討ちなど)に対して以前のような嫌悪感を持っていないことに気がついた。この私の心理的変化はどこから来るのだろうかと考えてみた。
[信長にとって日本統一は最重要課題]
◎ある意味、私が年の功によってより広い目でものを見るようになったからかもしれないなと感じる。具体的には、信長はあらゆることを、日本統一という一点に集中・集約して最優先していたのだろうと思えたからだ。日本統一を時代の最重要課題として位置づければ、自ずとそれ以外は優先順位が下になる。ことわざでいえば、"大の虫を生かして小の虫を殺せ"である(以前にはこのことわざにも嫌悪感を抱いた)。
[織田信長は今の時代でいえば政治家]
織田信長は今の時代でいえば政治家である。群雄割拠する政党の中から自分の率いる政党を与党に押し上げようとする政治家。政治とは妥協から成り立つ。すべてを自分の思うとおりに推し進めることができない。譲れる部分(低い優先順位)とどうしても譲れない部分(高い優先順位)とがあれば、譲れる部分は大胆に妥協(相手に花を持たせる)する。それによって敵の数を減らして味方に転換させてゆく。
[無慈悲さ・凶暴さが日本統一を推進]
◎戦国の時代、力のぶつかり合いの時代にあってすれば、彼の無慈悲さ・凶暴さがなければ日本統一はなかったかもしれない。その対比として明智光秀が浮かび上がる。かりにあったとしても、数百年遅れていたかもしれない。そうであれば今の日本とは大きな隔たりのある国になっていただろう。
[日本統一と黒船]
◎歴史を見れば、アメリカの黒船が日本に来たのは1853年である。豊臣秀吉の死後に徳川家康石田三成関ヶ原で戦ったのが1600年である。この年を日本統一の初めとすれば、それは黒船到来の1853年まで250年ほど前である。
[日本人の母国語は英語だったかも]
◎日本がその時点でいまだ統一していないならば、アメリカの属国になっていた可能性はきわめて高いだろう。そうなれば、もしかすれば、アメリカの命令に従ってイラクアメリカ兵の楯として日本人がばたばたと死んでいたかもしれない。日本人の母国語は英語だったかもしれない。日本文化の花は咲かずにしぼんでいたかもしれない。
[日本の固有・独自文化の成熟は徳川時代鎖国のおかげ]
◎日本文化が、日本の固有・独自文化が豊かに成熟したのは徳川時代鎖国が大きく寄与している。明治維新(政治革命)以降に日本の発展と外国への躍進とがうまく果たせたのは、それまでに築いていた徳川時代の文化の成熟に負うところが大である。この時代に大きく市民層(武士でも農民でもない階層)がふくらんだ。これが明治維新を成功に導いた大きな要因だと思う。
[平和は文化経済繁栄の礎]
徳川家康による天下統一までは、国の人的エネルギーの多くは戦いに費やされてきた。しかし天下統一によって、その人的エネルギーは知識や技術や農業生産や産業などのさまざまな分野に注がれることとなった。平和は文化経済繁栄の礎である。
[信長の無慈悲さ・凶暴さが日本統一にとって必要なもの]
◎このように歴史の流れを見てゆくならば、織田信長の無慈悲さ・凶暴さが日本統一にとってどうしても必要なものであっただろうという感想を持っても全くの誤りとはいえないだろう。また織田信長は是が非でも日本統一に邁進せねばならなかった、現代という着地点から見れば。彼は時代精神からそれを感じ取っていたのかもしれない。その時代に絶対に必要な人物であった。
[日本は必要な時期に必要な逸材が輩出する不思議な国]
◎私は時々感じる、日本という国は必要な時期に必要な逸材がその都度輩出する不思議な国であると。私は日本に生まれたことを本当にうれしく思っている。そのような、的確にツボに針を沈める針師のように、歴史的天才が誕生することに、心から驚嘆せずにいられない。