真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

偏見と正見

[仏教の話]
◎今日は(今日も、いつも堅い話ばっかりですか)少々肩(過多ですか、堅ですね)苦しい話をする。仏教の話である。私は仏教の信者ではない(宗派宗教にうさんくささを感じる)が、釈迦やキリストにたいへん興味を持っている一人である。
[偏見]
◎偏見とは、偏った(片寄った)見方、事実に基づかない見方、固定された見方である。これに正対する言葉(反対語・対義語)に、仏教用語であるが、正見(ショウケン)がある。
[偏見と正見]
◎正見とは何であろうか。それは正しい(片寄らず円満、無常に徹した)見方である。誤った見方である偏見に対する、正しい見方である正見。
[縁起観]
◎仏教は縁起観を持つ。あらゆる事象(認識の対象としての出来事や事柄やもの)は、それぞれの間が相互関係(何らかの影響を与え合うつながりを持つ関係、因縁生起、赤い糸もその一つ!?)の上に成り立つ。
[あらゆるもの事はつながっている]
◎つまり、あらゆるものや出来事は独立せず、つながっている。ただ自我段階の目ではつながっているとは見えない。それが見える目を霊眼(霊能力)という。その能力を持っている人を霊能者と呼ぶ。
[固定的な実体は何一つない]
◎もう一つが、変化せず固定的な実体は何一つないということ。つまり、無常(固定せず常に変化している)である。これらの二つの状態を無我あるいは空と呼ぶ。自我は自分を核(中心軸・X軸とY軸の交点)に放射状にあらゆるものを配置する。そしてその軸は固定される。つまり、融通無碍ではない。いつも自分にとってはという(自我)意識が消えない。
[ギリシア哲学も無常、無我、流転を探求]
◎このような理論(思想)を縁起観という。ギリシア哲学では、無常、無我あるいは空を、流転という。宇宙間にある万物の生滅変化(生滅流転)を貫く理法を、縁起、法、宇宙原理とも呼ぶ。
[無常で縁起が縁起観]
◎あらゆる事象は刻々と変化し続け、固定されることはない無常である。またそれらは互いに何らかのつながり(縁起)を持つ。変化しつつも互いにつながりを持つ。これが縁起観である。
[正見は宇宙の時間的空間的全体を見渡して物事を判断]
◎あらゆるものや出来事はつながっている全体である。それで、唯一の正見は釈迦がしたように、宇宙の時間的空間的全体を見渡した上で個々の物事を判断することである。
[部分しか見ないでの判断は偏見]
◎逆から言えば、宇宙の時間的空間的全体を見渡していない(そのうちの一部分しか見ていない)で判断された見方はすべて偏見である。
[自我が判断する見方はすべて偏見]
◎自我(私たちの普通の意識)は時間的空間的全体(過去から現在までの宇宙全体)を見渡せないので、自我が判断する見方はすべて偏見である。特に自我は物質によって支配されるので、物質しか見えない。
[偏見を脱する方法は]
◎では、偏見を脱する方法はあるのだろうか。それは自我(物質世界・自我という固定点)を捨てて(その状態が涅槃)、無我(空)になることである。例えで言えば、地上という物質世界から離れて空(天国)に舞い上がることである。
[正見は無我・空を見る]
◎そのことによってのみ、正見を得る可能性が生まれる。そのようにして得た正見で見れば、宇宙全体は無我あるいは空(変化し続けるひとつながりの海)だと実感できる。
[正見は悟り]
◎そうなった状態を悟りと呼ぶ。釈迦が菩提樹の樹の下でそこまで達した。それを無上正等覚と呼ぶ。その段階が神であり仏である。といっても、並みの者が悟っても無上正等覚にまでは達し得ないが。格がある、格付けあり。
[成長、発展、発達、進化は全体化・普遍化]
◎とは言っても、凡人である私が努力すべき方向、つまり成長、発展、発達、進化して行く方向は、仏教的に言えば、あらゆるもの(部分に分離された断片)を全体化する方向である。全体化とは普遍化である。普遍とはより包括的な方向であるから。その逆方向が分別(分析)である。だから分別は自我的行為である。
[弁証法は悟りの方程式]
ヘーゲルは、その発展方向に向かう方式を弁証法という言葉で表した。仏教で悟りという言葉を使うように。科学で使う統合、結合は宇宙原理では、成長、発展、発達、進化の方向である。宗教も哲学も科学も目指す方向は同じである。"つながっている全体"を見る(つまり正見する)という方向。