真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

落ちこぼれは誰か

[落ちこぼれるとは?]
◎古い話題で恐縮ですが、落ちこぼれるとはどういうことだろうか。イメージ的には、ある入れ物から溢れ落ちることだろう。普通に使われる意味は、学校で授業の進むスピードについて行けないことである。果たして落ちこぼれは誰なのか。
[学校で教師は何をしているのか]
◎しかし気になることがある。学校で教師は何をしているのだろうか。この言葉を聞かれて、何をバカな質問をするのか、こいつはと思われたかもしれない。
[さまざまなことを教えている]
◎学校では生徒はさまざまなことを学んでいる、教師は教えている(はずである)。だからすべての学科(科目)において落ちこぼれるということは余り考えられない。ないとはいえないだろうが。
[学力偏重、学力一辺倒を物語る]
◎学校でさまざまなことを教えている(と期待する)が、落ちこぼれるとは、ふつう学力(国語数学社会理科英語の教科)に関してのみ使用される。これは学力偏重、学力一辺倒を物語っている、象徴しているのではないか。
[学力偏重は時代の要請であった]
◎学力偏重は時代の要請であったから仕方がないという面もあるが。当時(先進国の仲間入りをするまでは)外国(主に欧米諸国)から知識を取り入れることが最大の課題であったのだから。
[学力偏重制度も崩壊]
◎しかし学歴社会はもうとっくに終えんしている。学歴社会とは、学力のみを判断基準(それも唯一の物差しが偏差値)とする制度である。しかしバブル崩壊とともに学力偏重制度も崩壊した。日本は外国からの知識を取り入れるだけでは済まないレベル(先頭集団を走っている!!??)にまで達している。だから、既成の知識を取り入れる能力(学力検査で高得点を取る能力)を磨くだけではもはや評価されない。
[知識を生み出す能力が問われる]
◎今や知識を生み出す能力(創造性)が問われている、求められている。しかも時代は多様化、多様性の時代へと切り替わっていった。学力は数ある能力のほんの一部でしかない。しかしいまだに、それに気づかない親が大勢おられる。学校関係者にも。政治家にも。
[世間知らずの教師]
◎それは世間知らずの教師にもいえるのだが。よい学校に入れることがよい就職に直結するとの固定観念から抜け出せていない、いまだに。それゆえにか、学校教師よりも、最新の情報を豊富に持つ塾や予備校教師の方が信用される。
[多品種適正生産時代に突入]
◎昭和時代は少品種大量生産(ベルトコンベアー生産)の時代で、これは製品にも人間にもいえることである。同じタイプの人間(オッと失礼、製品)を大量生産することを目指した産業は、いまや多品種適正生産時代に突入している。企業でも学校でも。
[ダブルスクールが当たり前]
◎今でも学歴による肩書きで通用するのは学生の5%程度(20名に一人、教室内で2名ほど)であろう。その中に入れなかった学生にとって、就職を有利にするのは、学力外(学校で教えないという意味で)の能力、個性などである。今は資格の時代に入っている。学校では手に入らない資格がものを言う。その結果、ダブルスクール(大学と専門学校)が当たり前になりつつある。
[大学希望者全員入学可能]
◎世は少子化の恩恵によって、大学希望者全員入学可能(もちろん授業料を払えばであるが)時代が間近である。だから名門校といえども、自らを変革するのに必死になっている。名前で入学する時代ではなくなったのですよ、親も教師もご存じか。中身で勝負!!
[さまざまな能力開発(個性開花)]
◎学校においても学力一辺倒(偏差値で輪切り)の縦割り(ピラミッド構成・ヒナ飾り)から、さまざまな能力開発(個性開花)という横割りの方向へと向かいつつある、といってもその歩みは余りにものろく、カメにもナメクジにもなめられている。学校はかつて平等が重要政策課題であった。組合(過去に繁栄した社会党系)の強い影響もあって。そこからどれだけ抜け出せるかが勝負である。
[英才教育]
◎そのせいなのかもしれないが、いまや、親は学校での指導に能力開発をゆだねることをあきらめて、親自身が子どもの能力開発を手がける事例が数多く、テレビや新聞などで報じられている。俗にいう英才教育である。さまざまな分野でその実りが報告されている。子供たちが望んでいる能力の開発を手がけられる教師が余りにも不足している。学力しか能のない教師で満ちあふれている。
[学校に任せておけない]
◎もちろん、成功事例の陰に無数の失敗事例が隠されているだろうが、学校に任せておけないという気持ちはこれからもますます強くなってゆくだろう。学校関係者はこのことを肝に命じるべきであろう。学力は数ある能力のほんの一部に過ぎないという事実を。本当を言えば、生徒・学生が落ちこぼれているのではなく、学校教育が時代から落ちこぼれているのだ。