真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

集中力再び

[素晴らしい内容だったNHK番組]
NHKが、ホリデーにっぽん「禅 生きる支え求めて〜外国人修行僧たちの日々〜」(放送日:2007年11月23日金)、という番組を放送していたのを偶然見た。素晴らしい内容であった。
[ある外国人修行僧]
◎その中で、ある外国人修行僧(仕事に挫折した中年男性)が、住職への質問として、座禅中は集中できるが、日常では雑念に囚われる、という内容を述べていたことがとても印象に残った。
[二種類の集中力]
◎それについて感じたことを述べたい。なお、以前このブログで、「二種類の集中力を使い分けよう」を書いたので、参考にしていただければ幸いである。
[座禅中は集中できる]
◎「座禅中は集中できる」について、それ(座禅中の集中)は無念無想の集中である。雑念が湧いて来ても、それらには一切意識(注意)を向けないで、切り捨ててゆく。例えば、外から音がしても、それに注意を向けない。
[無念無想の集中]
◎つまり、雑念を完全無視する、雑念を切って切って切りまくる、それを続ければ、心の水にもはや何も放り込まないので、水が常に鏡のように波立たないようになる。これが無念無想の集中である。水が波立たずに、しかも全てを映し出すようになる。
[日常では意識を働かせる]
◎しかし、日常では何かをしなければならない。何かをするということは、何かに意識(注意)を向けることである。座禅では、意識(注意)にフタをして何も入らなくすることで済むが、日常では意識を働かせておかねばならない。
[日常では雑念に囚われる]
◎その結果、その外国人修行僧は、座禅中には集中(無念無想)できるが、日常では、雑念に囚われるという。つまり、意識(注意)のスイッチを切る座禅の集中と、オンにしたままの日常の集中とでは質が異なる。
[意識(注意)がそれる]
◎雑念に囚われるということは、集中すべき内容から、意識(注意)がそれてしまうことである。そのようなことから、集中は定(心を一処に定止して、散ることなく乱れることがない状態)とも呼ばれる。
[意識(注意)の焦点化]
◎座禅中の集中は、意識(注意)の働きを止めればいいのであるが、日常中の集中は、意識(注意)を働かせながらも、それを自分が定めている方向に、向け続けて(焦点化して)おかなければならない。レベルがそれだけ高いともいえる。
[本能が意識(注意)をかすめ取る]
◎私たちには、本能的ともいえる機能があって、それが、私たちが制御している、意識(注意)をかすめ取る。私は美人が前を通れば、目が勝手にそちらに向かってしまう。いまだにそれをどうすることも出来ない。たいてい、自分の目は意志が制御しているが、不意に本能がそれをかすめ取る。
[煩悩]
◎それを、仏教では煩悩という。この煩悩は、強い強い意志でもって、制御できるように訓練しなければならない。これはかなり激しい訓練しない限りいつまでたっても、乗り越えられない。
[現在必要以外は煩悩]
◎日常的な仕事などで、今現在必要としていること以外は、その人にとっては煩悩である。その煩悩を断ち切る訓練を、日常の中でも行わなければならない。その煩悩をどれだけ断ち切っているかが、その人の集中の深さである。
[面白い話題に気が散る]
◎私は、仕事中に、ラジオをかけていると、面白そうな話題が出されると、気が散って、そちらの方に意識(注意)を取られてしまう。それで、BGMにはクラシック音楽しかかけないように心がけている。
[目的にだけ気を集中]
◎しかし、集中が本当に深い人は、どんなに気を散らそうとしても、目的のことにだけ気を集中(定)させることができる。そのような集中が深ければ深いほど、素晴らしい仕事を成し遂げられる。
[座禅は人の能力を高める]
◎座禅とは人の能力を高める効果を持つのですね。あなたの集中力は如何ですか。