真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

何故人を殺してはいけないのか

[何故人を殺してはいけないのか]
◎朝、新聞(サンケイ)を読んでいると、「何故人を殺してはいけないのか」という言葉に目が留まった。ということで、人は、「何故人を殺してはいけないのだろうか」。
[人を殺してはいけないから]
◎その答えは、ずばり、「人を殺してはいけないから」だ。むむっ、「これは答えになっていないではないか」、と思われるかもしれないが、これがまさしく答えだ。
[河合隼雄氏を思い出す]
◎これを書いていて、河合隼雄氏を思い出した。といっても、もちろん、個人的な面識は全くない。氏(私にとっては師)の著書の愛読者に過ぎない。
[いけないから、いけないんだ]
◎氏がある本に書いていた(と思う)。援助交際をするある女の子が、「何故いけないの、誰にも迷惑かけてないでしょ」、との問いつめに、「いけないから、いけないんだ」と、毅然と言い返した。
[拠り所とする根拠を問う]
◎「何故」とは、何かをする、あるいはしない、に当たっての、拠り所とする根拠を問うているのだ。
[心情的な拠り所]
◎河合氏の場合、彼女に対して、理論的な拠り所ではなく、心情的な拠り所を与える仕事をなさっていたと感じる。つまり、頭に向かって仕事をしたのではなく、心に向けて心血を注いだ。心理学とはそういうものであろう。
参考資料→(私のブログ)「学問の重層構造」
[我思う故に我あり]
◎話は飛ぶが、デカルトは、自分の哲学を打ち立てる、最終根拠として、「我思う故に、我あり」と宣言した。哲学は、彼以前には、神を思索していたが、彼以降は、自分・我(人間)を思索するようになった。
[我思わずであれば]
◎だが、思わず、「我思わず」であれば、彼の哲学はどうなっていたのだろうと、我思わずにはいられない。どうでもいいですよ。
[東洋(無我)と西洋(個我)]
◎余談だが、仏教は、「我思わず(無我)にまで到達せよ」と、いさめるのだ。ここが東洋(無我)と西洋(個我)の分かれ目である。西洋では、我を消し去ることには思い至らない。ここ(我の有無)が哲学と宗教の分かれ目でもある。
[無限後退]
◎話を戻す。根拠を示すと、そのまた、その根拠を問うことになる。そして、その根拠を示すと、更にまた、その根拠を問うことになる。この繰り返しが延々と続く。これを「無限後退」という。人間の思考にはこれがつきまとう。
[無限個映し出される]
◎少々話がずれるが、水平に向かい合わせに置いた鏡の真ん中に、リンゴを置く。と、そのリンゴが無限個映し出される。鏡の中に鏡が映し出され、その映し出された鏡の中にまた鏡が映し出される。それが永遠に続く。
[法治主義]
◎そこで、どこかでそれを止めなければならない。日本では、それを止めるのが、法律であり、憲法である。全ての根拠を憲法(法律)に求める。それ以上にはさかのぼらない。これを「法治主義」という。
[法の目は余りにも疎い]
◎「天網恢々疎にして漏らさず」(老子)であるが、しかし、人間の作る法律は、神のようには、全知全能ではない、万全ではない。法の目は余りにも粗(疎)い、多くのものが漏れてしまう。
[始終そのほつれを補修]
◎多くの者が、それをかいくぐってゆく。しかし、法に書いていないのだから、悪とはいえない。その結果、法の番人は、始終そのほつれを補修しなければならない。法はますます複雑怪奇となり続ける。
[世に盗人の種は尽きまじ]
◎宗教は、安物の人網を捨てて、「天然自然」の天網を使いなさいと勧める。そうしない限り、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」(石川五右衛門)である。
(陰の声)「でも、天網ってどこで売っているんだろうか」。    それは「羽衣」にありますよ。