真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

古池やかわず飛込む水の音、バショーン

[その時歴史は動いた]
◎今日2008/7月9日(水) 放送の、NHK番組「その時歴史は動いた」第331回「古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと」を、食い入るように見入ってしまった。
[松尾芭蕉]
◎とても興味があったにもかかわらず、「松尾芭蕉」について、私は余りよく知らなかった。俳諧とか俳句の違いについても。「うむーん」と思わずうなってしまった素晴らしい内容だった。
[句にまつわる話]
◎それで、自らへの復習もかねて、ほとんどがこの番組からの受け売りであるが、この句にまつわる話をお伝えしたい。
[時代を分けた歴史的な一句]
◎この番組の題名になった、「古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと」の句は、松尾芭蕉が、「俳諧」を「俳句」に切り上げた、押し上げた、時代を分けた歴史的な一句である。
[言葉遊び]
◎それまでの俳句(俳諧)は、その中身よりも、表現に重きが置かれていた。つまり、言葉遊びであった。武士や町人が寄り集まって、詠み合って笑い語る場を盛り上げる遊び道具であった。
[滑稽さ、奇抜さを求める]
◎しかも、「諧」の字が使われていることから察しがつくでしょうが、可笑しさ、滑稽さ、奇抜さが求められた。それをいかに読み込むかで優劣を競うことに重きが置かれていた。
[気持ちを表現する手段]
◎しかし、この芭蕉の句以降は、自分の心、自分が何かに対して感じた気持ち、を表現するための手段とする芸術に高められた。「形」(言葉)から中身(気持ち)へと重心が移された。
[不易流行]
芭蕉は、句の中身について、「不易流行」という。「不易」とは、変わらぬもの。「流行」とは、逆に移ろいゆくもの。
参考資料⇒「古池や 蛙飛び込む 水の音―日本人の美的センス―」=from"Global Voices from Japan"から引用。

日本人にとって「古池」、「蛙」並びに「水の音」のいずれも人工が加えられていないものとしての組合せであり、「優雅」と捉えられる対象となっている。いわば自然そのものである。日本人の美に対する態度はまさにその繊細さからうかがえる
[相反するものを一つの句に同居]
◎「不易」と「流行」という相反するものを、一つの句に同居させる。あの「古池や〜」の俳句であれば、「古池」という不易(静)に対して、「飛込む水の音」という「流行」(動)をぶつけて同居させることによって調和を保たせる。

[宇宙の基本原理]
◎実は、この相反するものを同居させることによって、調和を保たせるというのは、宇宙の基本原理である。中国では、それを「陰陽」という。
[流行へ思いを重ねる]
◎日本人は、どちらかといえば、「不易」に対してよりも、「流行」へ思いを重ねる傾向がある。「移ろい行く」はかなさ、悲しさに、心惹かれる。
[はらはらと散りゆく桜]
◎日本人の心を端的に映す花は、「桜」であろう。淡いピンクの花が、はらはらと散りゆく様に、一時を忘れる。
[変化について行く自然民族]
◎とはいえ、桜にかこつけて、酒を飲む口実を作り出す、どんちゃん騒ぎの無礼講を求める集団も多いが。どちらも日本人の心なのだろう。大地的などっしりではなく、変化について行く自然民族。
[世界中で愛好される庶民的芸術]
◎ところで、俳句は、今や世界中で愛好されている庶民的芸術の地位を築き上げてしまった。取っつきやすい心の表現手段として、海外でも広く知られている。
[しゃべくり漫才]
◎実は、私はこの句を聞くと、昔風な本格的しゃべくり漫才師、「夢路いとし」「喜味こいし」を思い出す。
[降る雨や買わず飛び込む百貨店]
◎彼らが漫才の中で詠んだ、「降る雨や、買わず飛び込む百貨店」という台詞が今でも鮮明に耳にこびりついている。もちろん、あの名句をパロディー(有名な作品の模写)化したものである。
[しゃべくり漫才俳諧]
◎昔のしゃべくり漫才は、「俳諧」のような言葉遊びを楽しんだものである。身振り手振りはできるだけ使わずに、言葉だけで、笑いを取ろうとした。
[ピン芸人]
◎今はやりのピン芸人たちは、言葉ではなく、身振りやキャッチフレーズ(例えば、「そんなの関係ねぇー」など)で、笑いを取ろうとする。
[好みに年齢の違い]
◎この元をたどれば、「ドリフターズ」に行き着くのではないかと思うが。しゃべくり漫才を好む年齢層と、ピン芸人を好む年齢層には違いがあるように思える。
[それぞれが豊かに花開く]
◎ともあれ、漫才であれ、言葉遊びであれ、さまざまなバリエーションに分かれていって、それぞれが豊かに花開いてくれることを期待したい。でも、私は本格的なしゃべくり漫才を聞きたい。
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