真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

母の死で生きる意味を見失ったドイツ人が

[ドイツ人が禅寺を継ぐ]
◎毎日「日経BPネット」からメールが何通も送られてくる。その中に、「ドイツ人堂頭、自給自足の禅寺を継ぐ 生かされる意味を説いていきたい 」=From"ひと・話題nikkei BPnet 〈日経BPネット〉"が紹介されていた。
[ドイツ人堂頭ネルケ無方さん]
◎私は、禅宗(坐禅)に興味があったので、興味津々でそのページ(サイト?)へ読みに行った。そこには禅寺を継ぐドイツ人堂頭「ネルケ無方」さんが登場する。
[日本の良さを発見する外国人]
◎最近、日本人が見失った、あるいは見向きもしなくなった日本の良さを発見した外国人が、その日本の伝統を引き継ぐ、受け継ぐ、ことを紹介した記事にもお目にかかるようになった。
参考資料→「日本の伝統を継ぐ外国人たち | ひと・話題 | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉」
[はなてば手にみてり]
◎そのように、日本の伝統を引き継ぐドイツ人堂頭が、座右の銘にしている、道元禅師の「はなてば手にみてり」について考えてみた。放った家鳩は手元に返ってくるが、道元は「何を放て」というだろうか。
[生きることの意味に悩む]
◎その記事の主人公、ネルケさんは、7歳で経験した母の死によって、生きることの意味に悩んだそうである。その意味への解答を求めて日本の禅宗(坐禅)にたどり着いた。
参考資料⇒「今日は道元禅師のお誕生日です」=from"つらつら日暮らし"「道元禅師が8歳の時、母は忽ちに亡くなってしまわれた」
[自分を手放せ]
◎彼はその禅宗の師匠から、「自分を手放せ、忘れなさいと言われて、その難しさに苦しんだ」そうである。「自分を手放せ」と言うが具体的には何をすればいいのだろうか。
[生かされていることが生きる意味]
◎紆余曲折の末にたどり着いた経験(結論・解答)は、「生きる意味が問題なのではなく、生かされていることこそが生きる意味だ」ということであった。つまり、「生かされている実感が生きる意味を気付かせた」という。
[ギリギリの生活が生かされているという実感を生む]
◎その実感、その悟りは、生きることが精一杯の極限に近いほどの状況での修行生活からぽんと生まれ出た実感、悟りであったという。全くといえるほどに考える時間的余裕のないギリギリの生活が、生かされているという実感を生じさせた。
[生きる目的は何なのだろうか]
◎私は、以前(2008/10/20)に、「生きる目的は何なのだろうか」という記事を書いた。そこで、私は、「生きる目的は他人から与えられるものではなく、自分自身が書き込む白紙の招待状」だと述べた。
[白紙の招待状]
◎「白紙の招待状」とは、ただ「生きよ」と書かれている(招待している)だけの招きである。「生きることを望む」とだけ表明した招待状である。目的(行き先/生き先)も方法も受取人に任せられた招待状である。
[自我は能動性]
◎自我とは「能動性」である。私たち(自我)は、常に何かを求めている。ネルケさんは、母の死によって、すでに手にしていた最愛のものを永久になくしてしまった。
[意味を見失って絶望]
◎求める「能動性」にとって、これは絶望という心境だろう。上記の「生きる目的は何なのだろうか」という記事で、生きる意味を見失って絶望した学生が投身自殺した話を掲げた。
[希望する自我]
◎希望する「能動性」の自我は、それが永遠に断たれたと感じると絶望する。そこで、師匠から、「自分を手放せ、忘れなさい」という助言が来たのだと思う。
[自我を手放せ]
◎この「自分」というのは、もちろん身体部分ではなく、「自我」(心・精神)である。その自我を手放せという。自我のない身では、失うものは何もないのであるから、絶望もない。あの学生も捨てるべきは命(身体)ではなく、自我であったのだ。
[自我は所有欲を持つ]
◎自我は、所有欲を持つので、「これは自分のものだ、あれが欲しい」と主張する。自我は、それをなくしてしまうと、自分を見失って絶望するほどの激しい所有欲を持つ。
[無我は受動性]
◎自我は、生きよう(「能動性」)とするが、無我は受動性なので、「生かされている」という実感をもてる。
[能動性がなければ生きられない?]
◎もしかすれば、無我が受動性ならば、生きようという能動性がないのだから、生きて行かれないのではないかと疑問を持たれるかもしれない。
[自我は求めて聞こうとする]
◎これに対して例えで答えたい。耳について、自我は、何かを求めて聞こうとするが、その時には、それ以外は聞こえない。求めるもの以外を排除しようという無意識が働くからだ。
[求めるもの以外を排除]
◎目も同様に、自我は、何かを求めて見ようとするが、その時には、それ以外は見えない。求めるもの以外を排除することによって、それがより強くよりはっきり見えるからだ。
[受動性と能動性を使い分ける]
◎英語では、その違いを明確に区別する言葉を持つ。"hear"(受動性)と"listen"(能動性)。"see"(受動性)"とlook"(能動性)。このように、受動性と能動性という態度の違いを別個の言葉で使い分ける。
[無我の目にあらゆるものが飛び込む]
◎無我では、何も聞かない、何も見ないのではなく、逆に、耳はあらゆる音や声を受け入れる。すべてのものが聞こえてくる。無我の目には、あらゆるものが目に飛び込んでくる。見ようとしなければ、すべてが見える。聞こうとしなければ、すべてが聞こえる。
[求めるものを際立たせる]
◎しかるに、恋は盲目である。あばたをえくぼと見てしまう。自我は、求めるものを、実際よりも、より強くよりはっきり際立たせてしまう。自我は一つを定めて、それを追い求めるが、無我はすべてをありのままに受け入れる。
[生かされている実感が身を包む]
◎それを、道元禅師は、「はなてば手にみてり」といった。自我によって「生きる意味」を考えることをやめる(はなてば)と、「生かされている」という実感が身を包む(手にみてり)。
[西洋人にはとても難しい]
◎師匠が、ネルケさんにいった、「自分を手放せ、忘れなさい」はこういう意味であった。が自我を強く保つことが当たり前の西洋人にはとても難しい、理解しがたい態度であったのだろう。
[自我か強くなった日本人]
◎いや、自我が強くなってしまっている日本人にとっても、自我を手放すことは、とてつもなく難しい、理解しがたい行為になってしまっている。