真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

相対と絶対、量と質

[ある母親と障害者である息子]
◎今日は、かなり昔だが、私が読んだ、「ある母親と障害者である息子」の話をしたい。実話ではあるが、かなり手を加えてある。ご了解願いたい。
[母親は嘆き悲しんだ]
◎その母親は、自分の、障害を持つ息子が、何故他の子供たちのようにできないのかと嘆き悲しんだ。特に、小学校に上がってから、他の母親は子供たちのすくすく育つのを喜んでいるのに、自分はこんなにも悲しまなければならないのだろうと悲観した。
[息子はたどたどしい字を書く]
◎そこで、息子が高校生になったとき、鉛筆できちんと字が書けないならば、せめて習字でもと思い、習わせた。しかし、ここでもやはり、自分の息子はたどたどしい字しか書けない。
[隣人はきれいな字をすらすら書く]
◎所が、隣の小学生らしい女の子は、とてもきれいな字をすらすら書いている。我が子との差を思うと、これまた、苛立ちの元となった。悲しみの泉と化した。
[習字がとても気に入る]
◎所がしかし、息子は、そんな母親の気持ちとはお構いなしに、習字がとても気に入って、すごく楽しんでいる。毎回欠かさず通う。
[母親ははっと気がつく]
◎ある時、そんな楽しげな我が子の姿を見て、母親は、「はっ」と気がついた。「私は今まで、できる子と比較してばかりで、この子のことをしっかりと見ていなかった」と。
[子の本当の姿を見ていない]
◎彼女は、自分の感情(悲しみや嘆き)に流されて、この子の本当の姿を見ていなかったんだと気がついた。
[とても個性的な字]
◎そう考えて、息子の字を見ていくと、「とてもきれいだとは言えないが、しかし、活き活きとして、伸びやかな字を書いている、とても個性的な字ではないか」と、気が付いた。
[我が子を嘆く必要はない]
◎「なるほど、あの女の子の書く字は、きれいではあるが、それは先生の書く字、手本の字をひたすらまねるだけで、そこに個性が入っていないではないか」と、思えてきた。「我が子を嘆く必要などないんだ」と。
[悲しみや嘆きから解放された]
◎「私は間違っていた。他の子供たちと比較しては、嘆いていたが、ただひたすらこの子だけを見ていれば良いんだ」と。母親は長い間抱えていた、自分の感情(悲しみや嘆き)から、ぱっと解放された。
[子なりにさまざまな面で成長]
◎「そう言えば、この子は、この子のペースで歩んでいる。この子なりにさまざまな面で成長している。私はそのことにちっとも気がつかなかった」と。
[見なかっただけ]
◎「私はこの子の成長を見出し得ていたのに、それを見なかっただけなんだ」と知って、以降は、その子の成長を、ささやかであっても、その成長を実感して、ともに喜び合えるようになった。
[相対と絶対]
◎私は、この話から、「相対と絶対」を思い浮かべる。「相対」とは、比較の上での関係性である。右は、左でない方である。左がなければ存在できない。右は左があるから存在できる。同様に、左は右があるから存在できる。
参考資料→(私のブログ)「絶対から相対へ」
[宇宙に相対しか存在しない]
◎それに対して、「絶対」は比較なしで存在することである。だが、宇宙には「相対」しか存在しない。アインシュタインはそう言う。
[質と量]
◎私は、さらに、「質と量」も思い浮かべる。「質」は比較なしで存在することである。存在させることである。見てゆくことである。それに対して、「量」は比較の上で成り立つ関係性である。
[共通部分を元に比較]
◎「赤」は質である。「青」も別の質である。しかし、赤色は電磁波である。それと同様、青も電磁波である。この電磁波(波長という量)という共通部分を元にすると、赤と青は比較できる。
[比較しながら我が子を見る]
◎そこで、先ほどの「障害者である息子と母親」の話に戻る。この母親は、「相対と量」という側面から、我が子を見ていた。つまり、他の子供たちと(共通部分を元に)比較しながら、自分の子どものできなさを嘆いた、悲しんだ。
[視点の切り替え、発想の転換]
◎しかし、習字する我が子の姿を見て、突如、「絶対と質」とで、見るという視点の切り替え(発想の転換)をした。
[個性から我が子を見る]
◎つまり、他とは比較できない、「個性」(絶対と質)という視点から、我が子を見られるようになった。
[先進国は個性から見る時代]
◎先進国では、この「個性」(絶対と質)という視点から、「人」を、「もの」を、見る時代に入っている。しかし、我が国では依然として、相対と量だけで見ている。次の段階へと切り上がるべきである。
[両親はわが子たちを個性から見よ]
◎できるならば、せめて、あの母親が見出した新しい視点「個性」(絶対と質)から、世のすべてのご両親はわが子たちを見て欲しいものだと願う。
[教師たちは複眼を持て]
◎また、できれば、教師たちは、複眼(「絶対と質」と「相対と量」)で、児童生徒たちを見て欲しいものである。子供たちは大人から見出されるのをひたすら待っている。大人は子供たちを照らし返す鏡である。そこに映る自分の姿を見て成長する。