真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

速読と遅読、自分探しと原石と

[他人と会話しない]
◎私はほとんど他人と会話しない。現在ほとんどの時間を自宅で、しかも自室で過ごす。自閉、閉じこもり状態である。
[かなり会話をする]
◎でも、別の言い方をすれば、私はかなり会話をしている。かなり活発な会話を交わしている。といっても、子供たちも妻もほとんどの時間を外で過ごしている。
[会話の相手は文字文字]
◎では、誰と会話をしているのですかとお尋ねあれ。会話の相手は、文字である。誰かが書いた文章である。
[極めつきの遅読]
◎もっぱら会話相手は文字である。私は極めつきの遅読であるので、会話はあまり丁々発止とはいかないが。
[数行の文を読むのに10分]
◎時によったら、数行の文を読むのに、10分ほどもかける。もちろん、文章によっては、原稿用紙数枚を10分ほどで読み飛ばすこともあるが。
[読んだら反応を待つ]
◎何故遅読かと言えば、文章を読んだら、反応を待つ。誰の反応かと言えば、自分自身の反応である。
[知識の一方通行]
◎私が速読をしない最大の理由がここにある。速読は、自分を消してもっぱら文章を無意識内へ落とし込む。それでは知識の一方通行である。
[私自身の反応を感じ取る間]
◎私は反応を待つ。この文章に対して、私はどんな感情を感じているのだろうか。どんな意見を持っているのだろうか。私の中からどんな過去の経験が浮かび上がってくるのだろうか。と私自身の反応を感じ取る間を開ける。
[気を遣わねばならない間]
◎漫才でも、落語でも、対話でも、芸能全般でも、最も気を遣わねばならないのが、この間である。この間を無意識的に取れる訓練が極めて大事である。
[間抜け]
◎その間をうまく取れないのが、「間抜け」である。相手の反応を自覚させる、引き出す間を取らねばならない。0.5秒ほどの休止符を入れる必要がある。
[句読点は飾りではない]
◎文章を読むときにも、間を置いて、書き手と会話をして、自分自身とも会話をしている。句読点は飾りではないのである。
[自分の時間を自分で管理]
◎そんな時間を毎日数時間、時によれば、10時間を超える時間を会話に当てている。私は今年60歳であり、自分の時間をできるだけ自分で管理したいという気持ちが強くなってきた。
[会話ではなく思索]
◎会話においても、自分の管理下に置きたい。ということで、このような会話とあいなった。これは会話ではなく、思索と呼ぶのかも知れない。
[速読をしない]
◎かくて、私は速読をしない、極めつきの遅読派である。とはいっても、私は速読を評価しないわけではない。
[速読に憧れ]
◎速読に憧れて、速読に挑戦しようと思った時期もある。
参考資料→(私のブログ)「二種類の読書方法を比較してみた」(2008/11/08)
[自分との対話]
◎だけれども、ある年齢に達したら、全ての人に、遅読もしてほしいと願う。遅読は、思索であり、哲学であり、経験の体系化であり、それはとりもなおさず、自分との対話である。
[読む文章は媒介]
◎極端な言い方をすれば、ここまで来れば、読む文章は、媒介に過ぎない。両方の間に立っての仲立ちである、触媒である。自分の中に眠る経験をたたき起こすための。
[文章が夏目漱石っぽい]
◎私は、小説を読まないが、若い頃、夏目漱石の本をほとんど読破した経験がある。そうしたら、私の書く文章が夏目漱石っぽいものになった。とても、うれしかった。飛び上がりたいほど喜んだときもあった。
[おもしろうてやがて悲しき鵜]
◎だが、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(松尾芭蕉)である。私は単なる鵜であった。夏目漱石の文章を丸呑みして、そのまま丸出しするに過ぎなかった。そこに自分は全く存在しない透明人間になってしまった。
[他人の思想の自分化]
◎自分の言葉をはき出すには、どうしても、思索、哲学、経験の体系化、他人の思想の自分化という過程をくぐらねばならない。
[自分の中に経験が蓄積]
◎若い頃は、誰かの真似でもよいかも知れない。自分探しと言っても、自分の中に経験が蓄積されていない中で、自分を探してみても、尋ね人は見つけられない。
[数々のがむしゃらな体験]
◎先ずは、がむしゃらに体験をしてみなければ始まらない。数々のがむしゃらな体験を、ざるにすくって、水にくぐらせると、そこに小さな原石が見つかるだろう。
[それがあなたの宝石]
◎その小さな原石に、専門的な経験をどんどんくっつけてゆくと、それが少しずつ少しずつ育ってゆく。それがあなたの宝石である。それが探し求めているあなた自身である。