真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

芭蕉の句「閑さや岩にしみ入蝉の声」から感じたこと

Youtubeにハマった」
◎最近、"Youtube"にハマっている。いずれ"Youtube"がグーグルの最大の財産となるのではないかと思えるほど、まだまだ潜在的可能性を秘める機能である。
注)"Youtube"は、文字も、音も、静止画も、動画も放り込める。
「らばQ」
◎私が、本格的に"Youtube"を知るようになったのは、たぶん「らばQ」を知ってからではないかと思う。
「箸休め的な情報」
◎「らばQ」は、"Youtube"動画の面白場面の紹介が多い。箸休め的な情報を沢山提供してくれる。仕事の合間の癒しや休憩に最適なサイトである。
「BGMが欲しい」
◎そのようなことから、Youtubeに接する機会が増え、そこでは何でも揃うのではないかと考えて、パソコンをいじっている間も、BGMが欲しいと思い、自然音、環境音、クラシック音楽を探した。
「BGMを流しながらパソコンに向かう」
◎そして、これはいい音楽だと感じたものを、Youtube内の自分のページ(マイアカウント)に取り込み、それらを自動再生で流しながらパソコンに向かっている。
セミの声」
◎そのような過程で、セミの声(自然音)のサイトに行き着き、さらに、そこから「松尾芭蕉」の句、「閑さや岩にしみ入蝉の声」へと至った。
「古池やかわず飛込む水の音」
◎その句を見て、以前(2008/07/10)、私は、「古池やかわず飛込む水の音、バショーン」という記事を書いた事を思い出した。
芭蕉の思想」
◎ということで、今日はその続き的に、そこから引用した、「「不易」と「流行」という相反するものを、一つの句に同居させる」芭蕉の思想を中心に語ってみたい。
「不易と流行」
◎これを今回の句にも当てはめてみる。「閑さや岩」=「不易」。「しみ入蝉の声」=「流行」。「静」=「不易」と「動」=「流行」。
「大きな不易の中にちいさな流行」
◎「古池」や「岩」などの大きな「不易」と、「かわず」や「蝉」などのちいさな「流行」。大きな「不易」の中に、ちいさな「流行」が包み込まれている。
仏の手のひらで孫悟空
◎お馴染みの「孫悟空」で言えば、仏の手のひら(「不易」)で、暴れ回る孫悟空(「流行」)である。芭蕉はそのような視点を持っていたのではないか。
「ホワイトノイズ」
◎ここで、「蝉の声」を「ホワイトノイズ」から説明してみる。BGMや「ホワイトノイズ」は、集中を高めてくれる。
参考資料⇒私のブログ記事「「ホワイトノイズ」あれこれの覚え書き」
「目的以外の情報を遮断」
◎「集中」とは、目的以外の情報を如何にして遮断するかにかかっている。集中力の強さ高さは、その「遮断能力」の差である。集中力のない私などは、直ぐに「雑念」にとらわれてしまう。
坐禅は集中」
◎「坐禅」では、何か一つのこと、呼吸、数読み(数息観)、炎などに集中する。その能力が高まれば、次にはそこへの集中をも打ち消す。
「無への集中」
◎そのことによって、何物へも集中をしないという「無への集中」が得られる。意識は何ものかへ向かうが、そういう意味では無意識になることである。
「感覚遮断」
◎話を戻すが、BGMやホワイトノイズなどの音や音楽をかけるのは、「感覚遮断」効果があるからである。つまり、先程の句中の「蝉の声」は「ホワイトノイズ」として、「感覚遮断」効果を持っている。
「脳内に外部情報が途絶える」
◎そこへ、小枝を踏んでポキンという音で、セミの声が突如一斉に消える。そうすると、それまでの「感覚遮断」効果によって、脳内にはセミの声以外の外部情報が途絶えていた。
「脳内に形成される閑さ」
◎感覚遮断があったので、一瞬の「閑さ」が脳内に訪れる。外部は静かでなくても、脳内だけに形成される閑さ。もちろん、それはほんの一瞬の出来事であるが。
「なぜ声は岩に染み入ったのか」
◎ところで、なぜセミの声は岩に染み入ったのだろうか。私は、上で、「大きな「不易」の中に、ちいさな「流行」が包み込まれている」といった。
「不易の岩」
◎岩に染み入るとは、岩に吸い取られる、呑み込まれる。動が静に包みとられる。硬くて、強くて、どっしりつしている岩のイメージは、「不易」を表す。そのような岩がセミの声を吸い取ってしまう。
「無の境地を表現」
◎無の境地とは、外のざわめきがガラスで完全に防音された部屋にいる心境であろうか。とすると、「古池や〜」も「閑さや〜」の句も、無の境地を表現している。
松尾芭蕉が禅の体験」
◎私には、そのような視点を持つ松尾芭蕉が禅の体験を持っているように思えて仕方がない。少なくとも、「悟り」体験をしたのではないか。そのような体験から世界を眺めているように思える。
仏頂禅師」
◎やはり、資料に、「深川臨川庵に滞在中の仏頂禅師と交わる」とある。さらに、「芭蕉は深川に住んで間もないころに禅師と運命的な出会いをし、川向うの臨川庵に参禅する日々を送った」とある。
参考資料⇒1)「松尾芭蕉」/2)「芭蕉と仏頂禅師について」
芭蕉の作風にわびの詩情」
◎そして、「禅師との交渉期間は、禅師が係争に勝訴するまでの1年半ほどの間と思われ、これを契機にして、芭蕉の作風に「佗」(わび)の詩情が色濃く投影されるようになっていく」となった。
「仏眼」
◎私には、「悟り」体験の効用のひとつは、芭蕉が手に入れた「「不易」と「流行」という相反する」視点、「流行」しか見えない俗眼に対して、相反する「不易」と「流行」という複眼的視点を持つ仏眼を手に入れることではないか、と思える。