真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

はじめに言葉、法、情報があった円環構造

「情報が人類の進化を止め、次なる新製品」
◎前回(2010/08/01)、私は、人類以後、人類以上の存在としての「情報」について述べた。そこから引用。

人類よりも、情報それ自体が進化し続けているとも感じられる。「情報」が、人類の進化を止め、次なる新製品として、機能・性能・利便性が向上し続けていくのではないか

参考資料⇒(私のブログ記事)「「ウェブ進化論」と「ムーアの法則」から推測する、人類以後の新生物は何か」
「人類以後の新生物として情報」
◎そこで人類以後の新生物として「情報」をあげた。それで、今回は、その続き的内容を述べたい。これは、完全に私の妄想的な思想(内容)である。おとぎ話的に気軽にお読みたいだけると有り難い。
「はじめに言葉があった」
◎「情報」ということで、まず最初に、聖書の中での「ヨハネ福音書」or「ヨハネによる福音書」=from"Wikipedia"の冒頭の有名な言葉を、私は思い出す。そこには、「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」と述べている。
「言葉=神」
キリスト教では、はじめに言葉があり、「言葉=神」であるという。だが、キリスト教だけではなく、仏教でもそれと同じようなことを述べている。
「法をよりどころ」
キリスト教では「言葉」(ロゴス)が使われているが、もちろん仏教では「言葉」だとは言わない。仏教ではそれに対応するものとして「法」=from"Wikipedia"を使う。そこから引用。
仏教において「法」が教えの中心となったのは、釈迦のさとりが「法」の自覚であったことと、その伝道が「法」の伝達であったことに明らかである。「法」をよりどころとし、「法」を規範としての生活こそ仏教者の生活である
注)「ロゴス」=from"Wikipedia"は、「概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味」を表す。
「宇宙に自生する縁起の理」
◎その「法」とは、「仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法」、つまり、仏よりも先に宇宙に自生する「縁起の理」(宇宙原理)である。
キリスト教と仏教の差」
キリスト教では、言葉から神を引き出して、さらに神の方を前面に押し出す。が、仏教では、仏よりも法を全面に押し出し、さらには「法」「縁起の理」(宇宙原理)を全面に展開する。
「世界の二大宗教がともに」
◎このように、神中心のキリスト教も法中心の仏教も、洋の東西に君臨した世界の二大宗教がともに、「ロゴス」(言葉)=from"Wikipedia"、「法」を存在の最初(基礎)のものとしてあげている。
「ロゴスが世界原理」
◎もっとも、聖書(新約聖書)が作成される前に、ロゴスが世界原理であると述べたのは、「ヘラクレイトス」=from"Wikipedia"であり、彼は「ロゴスを最初期に世界原理とした」人物である。from"Wikipedia"「ロゴス」。
「宇宙は、まず最初に情報が存在」
◎このような内容から読み取れば、宇宙は、まず最初に、キリスト教ギリシア哲学者のいう「言葉」(ロゴス)、仏教でいう「法」が存在したといえる。
「情報を元に宇宙が自己展開」
◎それを元に、宇宙が自己展開を始めた。それは、細胞が遺伝子情報を元に、自己展開するのと同じである。人間が遺伝子情報を下に、ひとつの細胞から、完成した人間が作り上げられるのと同じである。
「宇宙は情報を元に自己展開する存在」
◎このように、情報を元に、基礎が形成され、それを元に様々なものが応用された。そして、最後に人類が誕生した。宇宙は情報を元に、自己展開する存在である。
「人類は神が持つ言葉と法をあやつる」
◎そして、ついに、円環的に、人類は、神が持つと言われる「言葉」と「法」をあやつる存在として立ち現れた。脳は情報を処理する道具・機能である。
参考資料⇒(私のブログ記事)「脳は翻訳器械、結合器械」
「神から法を授かる存在」
◎「法」をあやつるといっても、もちろん、聖書が言うように、人類は最初は神から法を授かる存在でしかなかったのだが。
参考資料⇒(旧約聖書)「モーセの十戒」=from"Wikipedia"「エジプト出発の後にモーセシナイ山より授かったと記されている」
「人類は最終的に情報をあやつる存在」
◎「言葉」とか「法」を一言で言えば、「情報」である。つまり、人類は最終的に情報をあやつる存在となった。人類は、情報の貯蔵庫としてインターネットを創造した。
「情報を集め整理する壮大な目的」
◎そこで気になる存在が「グーグル・Google」である。グーグルは、「人類が使う全ての情報を集め整理すると言う壮大な目的をもって設立された」=from"Wikipedia"という。
「宇宙に遍満する法を悟った」
◎話を戻すが、「釈迦のさとりが法の自覚」とは、釈迦は宇宙に遍満する法(キリスト教的には言葉)を悟った(自覚した)、読み解いた、ということである。
「内在の外在化、潜在の顕在化」
◎宇宙は、自身の持つ「情報」(「言葉」「法」)によって、自己展開し、最終的に自身の持つ「情報」を客観的に読み取ることのできる存在(人類)を創造した。つまり、内在の外在化、潜在の顕在化である。
「体得による悟りを説く」
◎私は、釈迦を尊敬し、釈迦が悟ったという宇宙原理を理解したいという願いから、知的に探索をしている。しかし、釈迦は、知的な理解ではなく、体得による悟りを説いている。誠に「不肖の息子」である。
禅宗は悟りを拓くことを求める」
◎また、私が禅宗を真の宗教として、敬意をはらうのは、禅宗が悟りを拓くことを人類に求めるからである。宇宙の理法に従って生きることを求めるからである。
「心の欲するところにしたがいて矩をこえず」
孔子の言葉、「七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)をこえず」にある「矩(のり)」を、私は宇宙原理だと解している。矩を踰えずとは、悟りに達したという意味ではないかと思う。
注)辞書では、「矩(のり)」を、「人としての道理。人道」としている。
「人類が到達すべき理想の心境」
◎この孔子の言葉、「心の欲するところにしたがいて矩(のり)をこえず」が、人類が到達すべき理想の心境ではないかと私には思える。欲する心(個人の欲望)を十全に働かせても、それは常に矩(のり)(宇宙原理)にかなっている状態。
[梵我一如]
◎これを古代インドの宗教は、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という。それはは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であるという意味である。
参考資料⇒「梵我一如」=from"Wikipedia"