真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

ツイッターを使ってみてがっかりは私だけなのだろうか

◎私がこのブログ(真夢人日記)を書き始めたのが、2006-10-10、四年半近く前である。実は、それよりももっと前から始めたのだが、100本ほど記事をアップした時点で、すべてを削除した。
◎その時には、ブログ記事を残しておく意義、価値が分かっていなかった。でも、それらを含めて、再度アップし始めたのが、2006-10-10である。
◎だから、本当に始めたのは、それよりも一年ほど前だと思う。それが今では、もう600本近くにも上るほどの記事を書いてきた。
◎ところが、今や、情報発信手段として、ブログを書くよりも、ツイッターを流す人々の方が多いのではないかと感じるほどツイッターが主流になっている。
◎だがしかし、私にはツイッターを書く気にはならない。というのは、私には、ツイッターはおしゃべり(チャット)道具に思えるからだ。
◎私は性格的におしゃべりを好まない。どちらかといえば、無口である。小さな頃から、一人遊びをしてきた。といっても、やはり20代はいろんな人々といろんな遊びもしてきた。
◎しかし、30代半ば頃から、変な人間と思われるかも知れないが、私の話し相手の中心は、私自身となってきた。私は、しょっちゅう、自分自身に話しかけている。
◎もちろん、声には出さないが。電車内で、時たま自分自身と声に出して、会話をしている人を見かける。ホームレスの人の中にも意外とそういう人がいる。
◎私は、自分自身と議論をしたり、自分自身と発想を練りあったりする。自分自身とおしゃべりする利点は、相手が、自分自身とだと、時と場所と話題とを問わないことだ。
◎相手はいつでも、それに応じてくれる。寝床でも、電車の中でも、トイレでも。というわけで、私には、常に話し相手が真そばにいる。だから、ツイッターでおしゃべりをする必要を感じない。
◎だから、ツイッターでおしゃべりをしたいとは全く感じない。でそれ以外に、ツイッターの良さはどんなものがあるのだろうかと思う。
◎自分に合った道具なのだろうか。そんな思いから、ものは試しと挑戦してみた。私は、写真を趣味としている。写真の題材として、花を撮っている。
◎それで、花や景色・風景の良い所や時期を知りたいと思っている。「今は、今日は、今時分は」、どうだろうかという情報に対して、ブログはふさわしい道具ではないと思える。
ツイッターがその要望を叶えてくれるだろうと期待していた。それで、「大阪城 梅」とか、「鶴見緑地 花」とかで、ツイッターを検索したことが何回かあった。
◎期待を込めて、キーワードを打ち込んで、検索すると、たくさん釣り上がってきた。あるあるとわくわくしながら、それらを読んでいくうちに、うんざりした、がっかりした。
◎これは、インスタントメッセンジャー(IM)でのチャットと同じではないかと。そこには、ほとんど、私のほしい情報が流れていない。
◎でもでも今回は運が悪かったのではと思い直して、何度か試してみたが、ほとんどいつも単なる個人間のチャットレベルの情報しか流していない。
◎これがツイッターというものなのだろうか。これがツイッターの本筋的な使い方なのだろうか。これではケータイメールの無料代用品なのではないか。
◎期待が大きかっただけに、がっかり度もそれだけ大きかった。とはいっても、これはあくまで、私の狭い使用経験と使用目的から得られた結論である。
◎だがしかし、私は今ひとつだけフォローしているサイト(?)がある。「花の名所案内 (hanazakurajp) on Twitter」であるが、残念ながら、このサイトは、私がほしいようなピンポイントの情報は流してはくれない。
◎私の理解している範囲内での、ツイッターの最も大きな特徴を一言で言えば、「ピンポイント」だろうと思える。時間的にも、文字数的にも、空間的にも、深みにおいても、目的においても。
◎この「ピンポイント」性によって、ツイッターの巨大な潮の流れから、自分の目的に叶う情報を見つけ出すのも、本当に本当に苦労する。未だ目的を達したことがない。
◎例えば、ブログが10万分の一の地図だとすれば、ツイッターは5000分の一の地図くらいであろうか。そこにたどり着くのでさえ、並大抵の努力ではない。
◎私のような目的でツイッターを使うのが邪道なのであろうか。ツイッターの使い方の王道があるのだろうか。もしそうでないのならば、私のような使い方にふさわしい道具が他にあるのだろうか。
◎また、ツイッターがこれほど普及し、はやり、活用されているのには、やはり、とてつもない利点があるからなのだろう。それを享受できる使い方とはどんなものなのだろうか。