真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

もはや政治を超えた時代が到来しているのではないか

1)日本では、いな、世界的に見ても、政治が混迷している。それはなぜなのかと考えてみた。今日は、それに対する私の答えを模索した。
2)まずは、政治の定義から。それは、「広い意味において人々が生活する上で従うルール、支配、統治を創造し、維持し、修正し、また破壊することを通じて行われる活動」(fromWikipedia)である。
3)簡単にいえば、人々の生活上の法則(制度)を作って、それを実行することであろう。しかし、政治は、主に、物質的、経済的側面に対して行われているように思える。
4)ずっと昔から、それだけでは満足できない、行動規範的な側面は、宗教が担ってきた。人間には、心があるから、精神があるから、当然の成り行きだろう。
5)例えば、お金(貨幣)をコントロールするのは政治であるが、そのお金をどう手に入れるか、どう使うかは、政治的領域(合理的行動)よりも、宗教的精神的領域であろう。
6)私が言う、宗教とは、個人的心理面も、社会的文化面も含める、幅広い精神的領域である。狭い意味の宗教ではなく、広義の宗教である。
7)私は、宗教を信じている。広義の宗教の方であるが。そのうちでも、禅宗を好ましいものと思っている。特に、道元禅師の考えが好きである。
8)どんなところが良いかといえば、自立を強く求めるからである。自分で考えよ。自分で行動せよ。と要求する。自立志向の私には受け入れやすい。
9)だけどしかし、道元は、このように言う。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」(「正法眼蔵」生死の巻の中の有名な言葉)と。
10)自立を要求する禅宗が、仏への絶対帰依(もっと言えば、自らが仏そのものになること)を完成した姿だという。この矛盾は、どう解消したらいいのだろうか。話は簡単である。
11)社会に生まれることによって、社会からさまざまなものを受け取ってきた。それは、日常生活を営む上では、とても役に立つ経験である。ここまでが政治の領域である。
12)がしかし、それらは、宗教生活、精神生活を営む上では邪魔な存在でもある。故に、宗教生活(精神生活)を重要視するには、それらから解放される必要がある。
13)それらから解放されるには、自分で考え、自分で行動するという自立を強く推し進めなければならない。つまり、社会的衣(社会から受け取ったもの)をすべて脱ぎ去って、宗教的精神的衣に着替えなければならない。そこに至るまでは、自立的努力(精進)が要求される。
14)すべての社会的衣を脱ぎ去った後には、法の衣が与えられる。では、法の衣とは何なのでしょうか。まずは老子の言葉を聞いてみよう。
15)老子は、「天網恢恢疎にして漏らさず」といっている。天とは、自然の理法、摂理である。宇宙には自然の理法(摂理)が張り巡らされていて、それに従って、宇宙は活動している。
16)孔子も、それに関しては、論語のなかでこのように言っている。
「吾、15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。60にして耳順、70にして心の欲するところに従って矩をこえず」と。
17)ここで、天命とは、天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のことである。人間の存在よりも大きなものからの命令である。
18)天命とは、道元の言葉では、仏に随いもてゆく事にあたるだろう。天命を知り、天網に従って、生きてゆくためにしなければならないのは、社会的衣を一旦完全に脱ぎ捨てることである。
19)しかし、それは難しい。キリストはこういう。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。
20)この場合、キリスト(わたし)は、自然の理法、摂理の体現者として起ち現れている。仏教では、「真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体」、法身という言葉を使う。
21)精神が肉体よりも重視される現代では、もはや、今の政治では、多くの人々の心の満足を満たすことができない。かと言って、既成の宗教が、政治を行うことは、余りにも危険過ぎる。
22)もはや、政治が人々の心を満たすすべを持っていないのだろう。いな、人々が、政治から、心を満たすものを求める時代ではなくなったのではないか。政治が表舞台に立つことができなくなってしまった。
20)仏教には、「拈華微笑(蓮華微笑)」という言葉がある。私は、宗教は、教義を教えることではなく、天命、天の矩、天網を受け止める能力(悟り)を開花させることであると思っている。
注) 拈華微笑とは、釈迦が弟子たちに仏法を説いたとき、黙って金波羅華をひねって見せると、摩訶迦葉だけがその意味を悟って微笑んだ。
23)私は、既成の宗教に帰依することはない。例えば、教祖に帰依してしまえば、オウム真理教のように、信者は、教祖の操り人形にされかねない。それはまっぴらである。