真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

自力本願と他力本願とは対立概念???

0)自力本願と他力本願とは、対立する概念のごとくに思われているし、実言う私もそう思っていた。ところが、いろんな書物を読んで来て、これらは、相互補完する関係にあるとの結論に達した。
注)「相互補完」とは、互いに、相手の不足している部分を補い合うこと。相補って全体としては不足のないようにすること。
1)そこで、自力本願と他力本願について書こうと思い立った。まずは、あらためて、ネットで調べてみた。だがしかし、それぞれの言葉の意味を調べた結果、自力本願は仏教用語ではないとある。
2)また、他力本願は、私が書きたい意味ではなかった。仏教用語であるゆえに、意味が限定されている。私としては、もっともっと一般化された意味として使いたい。
3)私は、自力本願と他力本願とを、このような意味で使いたかった。つまり、登山のうちの、頂上へ向かう道(方向・努力)を自力本願と、頂上から下る道(方向・努力)を他力本願と、見る。
4)他の例で言えば、自転車を乗る練習で、ハンドル操作やペタルこぎを、意識的に頭で考えながら、練習する段階を自力本願と、ある瞬間、不意に、勝手に乗れる段階に達したのを、他力本願と。
5)更にまた、滑り台を例に取る。子供の遊具である滑り台で、その上まで登る段階(重力[自然法則]に逆らう方向)を自力本願と、滑り台を滑り降りる段階(自然法則に従う方向)を他力本願と。
一本彫りの仏像
6)次は、もっともっと複雑な例を上げる。仏像を一本彫りする仏師に弟子入りする男を思い浮かべる。弟子入り後、意識的に努力を重ねる。10年が過ぎ、20年が過ぎ、ついに、40年が過ぎた。
7)あるとき、一本の丸太を見ると、そこにありありと仏様の姿が見える。彼は、一心に、夢中で、ノミを使い仏様を見事に掘り出した。
8)彼の40年間の意識的な努力の方を自力本願と呼びたい。そして、一本の丸太の中に仏様を見た時が、それ以降の行為をも含めて他力本願と呼びたい。
9)これらは、本来の自力本願(?)と他力本願との意味とはかなり異なっている。が、宗教の世界だけではなく、日常世界でも、自力本願と他力本願とが、一枚の紙の裏表のように重なり合っていると言いたい。
注)私は、「本願」の意味を、仏や菩薩にかぎらず、一般化するために、強引にも、「願いを立てて叶える」という意味で使いたい。自力本願を、自らの力で、願いを本物にすると。なお、本願の本来の意味は後で示す。
10)科学用語としても、一般的用法としても、意識と無意識が対立概念としてある。意識側(思考・活動)が自力本願で、無意識側(思考・行為)が他力本願である。意識と無意識とも、実際には、相互補完する関係にある。
注)対立関係にあるものは、実際には、相互補完する関係にあることがほとんどである。右と左、男性と女性、などなど。
11)ところで、本来的な意味に戻ると、本願とは、仏・菩薩が、すべての人を救わんとする根本的な願いのことである。私は、仏の人を救う本願を矮小化して、また、適用範囲を拡張して、神仏にかぎらず、人でも願いを立てて叶えようとすることという意味で使いたい。
12)他力とは、自分の力であれこれと処置したり、取りはからったりしないことで、自己のはからいを捨てて、仏の手にすべてを任せること=自然法爾(じねんほうに)である。
13)しかし、私達人間は、意識的努力を繰り返すことによって、ある時突然、無意識的に行為ができるようになる。例えば、日本人が英語を聞いていても、全く聞き取れない。
14)でも、何百時間、何千時間(ここまでいかずとも)と聞き続ければ、ある時、突然、俗にいう、英語耳(英語の発音を意味をも含めて聞き取ることができる状態)になる。
15)英語のことわざに曰く。「天は、自ら助くるものを、助く」(Heaven(God) helps those who help themselves.)。この自ら助くを自力本願と、天は助くを他力本願とする。
16)この場合も、天が助けてくれるのは、その前に、自らを助けたものに限るのである。自助の後に天助(天女であればなおさら嬉しい)が寄り添ってくる。
注)別の言葉で言えば、「人事を尽くして天命を待つ」。人事を尽く(自力本願)したものの所へだけ、天命(天からの審判としての使命と運命)が感応本願する。
17)私が以前に書いたブログ記事:"究極の自律は、究極の依存である"の中で、書いた言葉をここに引用する。
18)◎パウロがこう言った。「もはや我、生きるにあらず、キリスト、我が内にありて生きる」。もはや我生きるにあらずといえるのは、それまでは、パウロ(の中にある自我)が生きていたからである。
19)パウロが必死に宗教面で努力した、修行を重ねた。その結果、彼のうちにあって、突如、キリスト(神)が生きるようになった。
20)◎道元の有名な言葉:ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、ほとけの家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これにしたがいもていく時、力も入れず、心をも費やさずして、生死をはなれて、仏となる。
21)キリスト教パウロと、仏教の道元が同じようなことを言っている。もちろん、パウロは、キリストといい、道元は、仏と言っているが。なお、「他力本願」の「他力」の「他」は、神であり、仏である。
22)道元は、ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、ほとけの家に投げ入れ、という。これをするには、意識的努力がどうしても必要である。
23)というのは、特に、現代人は、育つに連れて、自我が、自分の内部に強く根付いてくる。この自我を放ち忘れてしまうには、本当に努力の上に努力を重ねねばならない。
24)この自我を放ち忘れるという「無我」に達するまでの努力を、私は、自力本願と呼び、放ち忘れた瞬間を他力本願(キリストが生き、仏の方より行われる段階)と呼びたい。
25)つまり、自力本願の「目標」は、「無我の境地」であり、他力本願にとっては、それは「出発点」である。禅宗は、無我の境地に到達するために、修行に修業を重ねる。
26)他力本願の宗派は、無我の境地を得る(救われる)ために、主に、仏に願いを唱えるという念仏による三昧を求める。他力本願でも、表立っては言わないが、やはり、無我の境地を得るために、密かな(意識的)努力を重ねる。
参考)道元禅師と親鸞聖人における自力と他力 白川正信 | 赤とんぼ
27)神はいつでも出番を待って舞台の袖に出張っているが、自我が、いつもいつも、神を押し退けて、強引に人生の舞台に躍り出でしまう。
このページの続編的なものを「意識(自我)と無意識の関係は人と神との関係」 - ("真 夢人 日記")に書いています。そこもお読みいただければ幸いです。