真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

意識(自我)と無意識の関係は人と神との関係

このページは、前回の、「自力本願と他力本願は対立概念???」に書いた追記を、独立のページに移動させたものである。
追記1-1)私は、自我が消えて神が前面に出ることは、個性が消えてしまうのではないかと、強く懸念していた。自然法則に従って動くだけのもののごとくになるのではと懸念した。つまり、それまで営々と築いてきた人生(自我か営んだ体験)が消滅するのではないかと。
追記1-2)しかし、自我が築いた個性(能力・才能)は、全て生かされ切ることを知った。というのは、自我が築いた能力、才能を使って、それを活かしきる手段が、「仏の方より行われる」「キリストが生きる」という方法だからである。
参考1)from Amazon.co.jp:「弓と禅」:by「オイゲン・ヘリゲル」,稲富 栄次郎,上田 武: 著書。自我か築いた才能が、無我(仏)によって、どのように発揮されるかが、弓の稽古を通して描かれている。すごい師範が存在したのだなあと感嘆する。興味ある方はぜひお読みいただきたい。
参考2)直感(直観)は論理的判断よりも優れているのは何故か - 真 夢人 日記
追記2-1)自我は何故に強引なのだろうか。他の動物は意識側よりも無意識側のほうが圧倒的に強い。だけど、人間だけは強い意識側を所有する。自我は意識側に存在し、神仏は無意識側に存在する。意識側は無意識側の制御を拒絶できる。
追記2-2)無意識側を表舞台に立たせるには、図々しい意識側が袖に控えるという強い自制能力が要求される。意識を押しとどめるというこの自制能力が強く育っていなければ、神仏は前面に出られない。この図々しい強引な意識側を完璧に制御する能力を身につけるのが仏教修行の眼目である。
追記2-3)ここに自己矛盾が存在する。意識側を押しとどめるのもやはり意識側である。押しとどめる意識が十分強くなれば、次に、その押しとどめる意識側を如何に捨て去るかが眼目である。その時にも意識を使えば、意識の層が厚くなるばかりで、一向に無意識側は表舞台に立てない。
参考)「十牛図」from"Wikipedia"
追記2-4)アダムとイブが楽園から追放されたのは、この理由(神の意志に背いて人間の考えを優先させた、言い換えれば、意識が無意識を従えるほどに強くなった)による。神が人間たちを制御しきれないのはこの理由(人間においては、無意識よりも意識のほうが強力である)による。
注-1)人間だけが、無意識をやすやすと圧倒するほどの意識を手に入れた。聖書では、知識となっているが、一般化すれば、左脳(もう少し狭めれば、言葉)である。意識側とは左脳側(特に左脳側前頭前野)である。人間は、左脳を特殊化させた。
注-2)人間以外の動物も、もちろん意識を持っている。が、意識が無意識を従えるほどに強力な意識を持ち得ていない。多分外界を見る窓口程度である。
追記2-5)意識側を黙らせる方法が、(前頭前野にある)左脳部分の働きを止めることである。左脳と対立関係にある右脳の働きに関して、観世音菩薩について (9): 唐松模様から引用する。
『テイラー博士は、この本の各所で、このほかにも左脳の損傷によって意識の前面に現れた“右脳による世界認識”の様子を描いていて、それらは宗教的なイメージに満ちているのだ。その部分を抜粋しよう−− 
「肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になった感じ。大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。』
なお、引用内のこの本とは、Amazon.co.jp:「奇跡の脳」:by「 ジル・ボルト テイラー,Jill Bolte Taylor」,竹内 薫: 本
追記2-6)私は、長い間、全知全能といわれる神のこの(人間を指導しきれないという)不甲斐なさに疑問を感じていた。残念ながら、(無意識領域に活動範囲を限定する)神は人間の意識側を自由に制御できないのだ。
追記2-7)神の領域は、無意識領域である。物質は100%無意識領域(孔子の言う矩が働く領域)内である。意識領域は、ブライベートな領域である。ここは自我が主導権を握る場所である。つまり、神の支配する楽園の外になる。未熟な自我(孫悟空)は、神の支配できない治外法権下でかくて暴走しまくっている。
注-1)ユングは、個人無意識、集合的無意識(普遍的無意識/人類無意識)に分けたが、私は更に奥に、宇宙無意識(物質に働く無意識)もあると思う。なお、個人無意識にはまだ自我(個人)の影響力が強く及ぶ。
注-2)夢は、意識の主導権が弱まる睡眠時に、個人無意識が主導権を取って、活動することから生じる。瞑想では、起きている間にもそのことが可能となる。発想法の多くもその原理を利用している。
注-3)催眠は、意識が汲み取れない個人無意識内にある情報を汲み出すことができる。釈迦は、個人無意識、集合的無意識、更にその奥にある宇宙無意識にまで到達した。そして、そこで働く法を読み取り、「縁起の法」と抽象化した。
追記3-1)仏教は、人間だけが持つ強い意識側の悪い面を強調しすぎではないかと思う。とはいえ、人間の歴史を眺めていくと、戦闘の歴史と言っても過言ではないほど、争いだらけである。
追記3-2)それに対して、現実の中に入って、現実を変えてゆこうとするユングは、自己実現という。自己の個性を最大限に伸ばすことである。個性を「伸ばす」には、強い意識側がどうしても必要である。しかし、その後に、個性を最大限に「発揮する」(他力本願する)には、無意識側を表舞台に立たせなければならない。
注1)集合的無意識(普遍的無意識):人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域。個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用力動。
注2)自我(意識中心)が自己(無意識中心)との相互作用で成長し、球的完全性へと向かう過程を、ユング心理学(分析心理学)では、「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼ぶ。
注1)注2)とも引用(改変)fromWikipedia.
注3)西田幾多郎は、実在するあらゆるものの根底には同一の統一力があると考えた。その統一力の源を、不変的或者または神と呼んだ。引用from西田幾多郎とは|「よき人々の歴史」
追記3-3)ユング集合的無意識と呼び、西田幾多郎が統一力と呼ぶ、あるゆる人々の根底に横たわる力の源泉。この力の源泉を引き出すためには、この力が働くためには、無意識が主体にならなければならない。このようになった状態を、パウロは「キリストが生きる」といい、道元は「仏となる」といった。宗教一般では、「救われる」という。
追記3-4)仏教では、「悉有仏性」(山川草木悉有仏性)というが、仏性とは、統一力が及んでいることを意味するように思える。統一力によって、万物が宇宙原理(矩/仏性)に従って流転する。だのに、人間側の知だけで生きることを無知と呼ぶ。
追記3-5)中国では、それを道(どう・タオ・Tao・みち)と呼ぶ。道は、人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。引用fromWikipedia
追記3-6)悟るためには、首(自我、意識)をちょん切らねばならない。逆から言えば、人間以外は、無意識の世界に浸っている。つまり、悟っている。悟るとは、無意識から、全面的に智や力を受けることである。超能力は、無意識から智や力を受け取る能力のことである。あって当然の能力である。
追記3-7)直観は、意識側が体験的に溜め込んだ個人無意識内にある知識を使う能力である。それは論理思考をしたがる左脳が扱える能力をはるかに超えているので、掌握した内容は論理的には説明できない。
追記4)締めをすると、高い能力、高度な個性的能力を培うための、強い意識側を育てる。そのようにして培った高度な個性的能力を発揮させるために、強い意識制御能力を獲得する。そのようにして、無意識側を前面に立たせる自制心を駆使する。今は、そんな時代に来ているのだろう。