真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

文化文明の進化論的な栄枯盛衰(3)

環境には、動的環境(主なものは、エサと敵)と、静的環境(気候、水の有無などの生活基盤)とがある。
動植物は、同じ場所(静的環境)に生存しても、種によって、動的環境は大きく異る。つまり、生態系が異なる。
ギブソンは、アフォーダンスという語を創りだした。それは、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味・価値を言い表す。
環境の側にはさまざまな意味・価値が潜在しているが、動物(有機体)の能力・機能によって、引き出す意味・価値が異なってくる。
ダーウィン進化論では、生物側は、単なる受身的な存在のように感じられる。しかし、アフォーダンスでは、生物側が、より能動的な存在として見ているようにも思える。次に示す「棲み分け理論」も能動性を読み取れる。
今西錦司は、「棲み分け理論」を提唱した。カゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。それぞれが棲み分けた環境に適応し、新たな亜種が形成される、と。
つまり、動的環境や静的環境を、すこしずつずらす、グラジュエーション化することで、変種(新たな亜種)が生まれ、多様化すると見た。これは横への変化である。これによって、縦への変化を説明するのは困難だろう。
縦への変化(進化)を促すには、酸素の発生とか、巨大な隕石の落下など、地球規模での変化が必要なのではないか。
注)ある程度閉じた、一定の区域に存在する生物と、それを取り巻く非生物的環境を、一つの系とみなし、生態系という。系とは、ある関係をもって、一つのつながりやまとまりをなすもの、をいう。
一つのつながりやまとまりといえば、オートポイエーシス的システムを思い浮かべる。例えば、細胞では、核酸酵素代謝物のような様々な生化学的な構成要素からなり、細胞内の組織化された構造を作り上げている。同時に、物質とエネルギーの外部との交換に基づいて作動しているこれらの構造は、その構造を維持しつづけるようにその構成要素を絶えず生成または分解している。(fromWikipedia)
そのような構造を、オートポイエーシス的システムという。これはまた、散逸構造とも似ている。散逸構造とは、エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化によって生まれる、定常的な構造、をいう。
台風がそれに該当する。高温の海面から蒸発する水蒸気が放出する潜熱が原動力、エネルギー源である。軽くなった空気は上昇する。すると地上付近では周囲から湿った空気が中心に向かい上昇し、さらに熱を放出しエネルギーを与える。このような条件を満たすときに台風は発達する。上陸して、エネルギーの供給が止まると、弱まり、やがて消滅する。
自給自足とは、生活に必要な物資をすべて自ら手に入れる生活のあり方であり、生物はすべて自給自足である、という。
生態系も、オートポイエーシス的システムも、散逸構造も、共通点は、自己組織化によって生まれる定常的な構造、である。つまり、自給自足することであろう。
生物も、無生物も、互いに関係を保ちながら、一つにまとまった、系として、活動する存在である。となれば、生物だとか、無生物だとか、システムだとか、と区別する意味が薄れてくのではないか。
自然は、車を作ることはできないが、車よりももっと複雑なカエルを創造することができた。しかも、自然に、自律的に。自然は、一つのまとまったシステムを自律的に創造できる存在である。
相手は自分にとっての環境であると同時に、自分は相手にとっての環境でもある。例えば、草食動物は、草を食べるが、フンをすることで、草に栄養を与えている。また、死骸になることで、土に滋養分となる。
つまり、円環的な持ちつ持たれつの関係にある。お互いがお互いの(動的、静的)環境になり合っている。
人間も自然によって創造されたものである。人間も周りの環境と自己組織化によって生まれる定常的な構造の一部になり得る存在である。老子の説く無為自然とは、このようなことをいうのではないでしょうか。
生存環境に関して、陸地が生存可能になって、水陸を行き来する、水辺の両生類が、進化的に主役へと変遷していく。更には、その後に、水辺を必要とはせず、環境的に優位に立てる、純粋な陸生生物である爬虫類が、主役へと躍進する。
どんな個体(動植物共に)も、他との(互いに相手の環境になり合う)関係を持たずに存在することは不可能なので、にじりながら進むかのように、徐々に変化、進化を遂げていかねばならない。
自分を作り替えていくことで、今までの系(生態系)を離れての存在が可能となり、新しく誕生した環境に、飛び込んで、適合したものが、新しい主役に躍り出ていく。
不幸な出来事によって、爬虫類である、恐竜が滅ぶよりももっと以前から、次の主役(猿)は、裏で着々と準備を進めていて、機会をうががっていたのである。
注)不幸な出来事:直径10キロほどの隕石が、メキシコのユカタン半島近くに衝突。巻き上げられた大量のチリは太陽光を遮り“衝突の冬”が訪れ、10年ほど続いた“冬”の間に植物は枯れ、続いて草食恐竜が死に絶え、その結果、肉食恐竜も絶滅していった。
これは、散逸構造を維持していた、ある種のエネルギ(この例では、植物)の流入が途絶えたために、ドミノ的に、構造が崩壊したともみなせる。
猿の生育環境は、森(世界の森林面積は約40.3億ヘクタールで、全陸地面積の約31%を占める)であり、恐竜のそれは、草原であった。恐竜の絶滅によって、主役の去った草原は、次の主役の座を狙うものたちにとって、草刈り場となった。
という点で、日本でも、今まで主役を張っていたが、新しく生まれ出た環境に適応できていない、巨大恐竜のような大企業には、早く主役の座を退いてもらいたいものである。
すでに、ものよりも体験、ものよりも思い出、の時代である。ものはそれを高めてくれる脇役である。ものよりも、体験、思い出、など心や感情を重要視する時代に入っている。
テレビや雑誌やネットで、東にすばらしいもの(例えば、高原のお花畑)を見れば、それを実体験したくなる。西に美味しいケーキがあると聞けば、それを五感したくなる。南にライブがあると知れば、それに没入したくなる。
それの走りが韓流ではなかったか。子育てから開放された女性たち。次には、仕事から開放された男ども。彼女ら、彼ら(私もその一人であるが)が、ものよりも体験・思い出の主役たちである。
情報提供者たち、若者にばかり焦点を当てずに、熟年男女の行動力にも目を向けようよ。世界に目をければ、先進諸国には、そのような暇とお金を持て余す熟年男女であふれ返っていますよ。
次の主役の登場を早める最大の手段は、主役が退くことによる、規制緩和(草刈り場の形成)である。
今の日本で、円高(輸入に有利)という環境から、円安(輸出に有利)という環境へと大きく環境が転換したことで、主役の交代があるかもしれない。
なお、私が今まで使ってきた進化(論)とは、厳密な科学的用語ではなく、環境の変化によって、より高度な、より複雑な、より要素が豊富な、方法・手段を用いる(有形無形の)形式へと、主役が交代してゆく過程という意味である。それが生物であろうと、無生物であろうと、無形の形式・システム・組織(例えば、プログラム)であろうと。
進化論に関して、総合説が現代進化論の主流であり、これも含めてネオダーウィニズムと称する。自然選択と突然変異を理論の柱とする。その内、自然選択とは、厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えることである。
スペンサーは、進化を自然(宇宙、生物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第一原理であると考えた。芸術作品も宗教の形態も何もかもすべて単純から複雑への変化として捉える。
私はその考えに賛同している。というよりも、私は彼の考えにインスパイア(思想などを吹き込んだり、感化、啓発、鼓舞、または奮い立たせたり、ひらめきや刺激を与えたりする)されたといえる。
進化とは、例示で示したように、例えば、情報の伝達手段が、声から紙へと主役が変遷してゆく(階層的な)上への変化である。
もちろん、音声から、一気に紙へと変化(進化)したわけではなく、古くは、石とか、木簡とか、ということで、声から文字へと変遷したといっても構わない。
石から木簡への移行ならば、横への変化(多様化をもたらすグラジュエーション化)であるが、木簡から紙(より複雑度の高い素材)への変化は、縦への進化である。
がしかし、例示では、どちらかと言えば、情報を載せる乗り物に力点を置いている。