真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

みなさんは、神様や仏様の存在を信じますか

みなさんは、神様や仏様の存在を信じますか。私は、信じています。
禅宗では、この世のあらゆるものが、神であり、仏であると、考えます。
つまり、それをふえん(敷延)すれば、私やあなたも神様だということになります。あなたはそんなことが信じられますか。私は信じています。
注)「一切衆生悉有仏性」。釈迦の仏説では、全ての衆生に仏性が備わっている。その仏性を開き現すことを成仏という。仏性が現れていてもいなくても、仏であることに違いがない。
道元は、禅宗のその思想が、本物であるかどうかを、見極めるために、人生の前半、修行を続けたと言えます。
注)道元禅師は、「何故、本来悟った仏であるならば、諸仏は何故発心し、修行をして、悟りを得たのだろうか?」と疑問に思われた。
そしてそれを体感した道元が、人間はすべからく、自らが神(仏)であると、自覚するようにと、厳しい修行を弟子たちに課した。
では、とあなたは疑問を唱えるかもしれませんね。神であるのに、何故人間は悪を働くのかと。
人間には、神の芯(魂)の周りに、生まれてから身につけた自我(社会体験)が、まとわりついていきます。
それを脱皮するのが、仏教修行だと、禅宗は、道元は、考えています。地をはうセミが、蝶が、水中に限定されるトンボが、空を自由に飛び回れるように脱皮するように。
注)道元の悟りの言葉=「身心脱落」。身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱。
自我は、自分を肉体に限定する、縛り付ける、自己を主張する要です。その自我を切り取る行為が修行であり、切り取れた瞬間が、悟りであり、身心脱落です。
生きる基盤である、地面や水から開放された、セミ、トンボ、蝶のように、更に広い世界へと自由に飛び回れる存在となります。
話は変わりますが、苦しい時の神頼み、という言葉があります。
苦しみは、本当に苦しい時には、胸をかきむしりたくなるほど、激しいものです。それを脱ぎ捨ててしまいたくなる程の辛いものです。
それを心のなかに閉まっておくと、もがき苦しみがいつまでも続くのです。
それを神様仏様に打ち明けたり、お願いしたり、哀願したりすることで、心の苦しみは軽くなります。
神様、仏様は、辛さ、苦しさ、悲しさ、怖さなどなど、マイナスの感情を引き受けて下さる存在なのです。
つまり、私たちは、そのようなマイナスの感情を棚上げする相手として、神様仏様を求めるわけです。
では、そんなマイナスの感情ではないときには、すなわち、うれしい時に、おかしい時に、楽しい時に、そんな感情を分かち合ってくれる同じ人間である相手を求めます。
共感してくれる仲間を求めます。特に幼い子どもたちは、親がそんな相手としていて欲しいと強く願っています。
幼い子どもたちにとっては、親は本当に大きな存在なのです。神様や仏様のような存在なのです。
幼い子どもたちにとって、親は、上から見守るような視線で、共感してくれる存在であって欲しいのです。
ある程度大きくなると、抱擁してくれる親から、同じ立ち位置にいる友だちがそんな相手であって欲しいと願います。
思春期には、感情を分かち合う相手としての友達は、本当に大切な存在なのです。それは、同じ年代ならば、わかってくれるであろうという期待があるからです。
逆に、親には相談できないような事柄を相談できる相手が友人なのです。
つまり、神様や仏様に対してと、両親に対してと、友たちに対してと、それぞれ、求めるものが異なるのです。
自分に、神様や仏様も、両親も、友だちもいる人は、本当に幸せな人なんですね。