真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

出井伸之氏の「日本進化論」を読んで考えたこと

本読みを復活させたが、その最初の著書、出井伸之氏の「日本進化論」の中に、「江戸時代の日本は、農業を基本とした循環型社会であった」という表現に出会った。
ということで、今日はこの言葉から視線を広げていって、思ったこと考えたことをお話したい。
まずは、循環型社会とは、本来の意味は、「天然資源の流れを「生産⇒消費・使用⇒廃棄」の一方通行にせず、天然資源の消費・使用をできる限り減らして、循環(繰り返し利用)できる仕組みをつくる社会」である。
注)引用from"『循環型社会』の全体像を学ぼう!|みんなで3Rやらんまいけ!"
だがしかし、私は、そういう意味を持つ循環型社会を、拡大解釈して、いや、その根本的考え方を勝手に解釈し直した。
「厳しい秩序や規範、道徳が求められるが、反面ではそれさえ守っていれば、非常に住みやすい社会なのだ。そう簡単に人を切り捨てたりしないし、何かがあれば、守ってくれるし、助けてくれる。ある意味相互依存の社会」、つまり、「村社会」と解釈したい。
注)引用from"日本中がバラバラ 村社会の崩壊について - 非正規労働者が能書きをたれてやる"
"循環型社会"と"村社会"とが共通する意図は、サークル(循環の輪/輪は和である)内のものは外に出さない(廃棄しない)、中にあるものは大切にしよう(使用)である。ある意味、使い捨てをしない自給自足社会、鎖国的社会である。
身内とよそ者。身内、村、組織、会社、システム。の中と外で峻別する、循環型社会、村社会、自給自足社会、鎖国的社会、藩社会。内部にあるものは、できる限り再利用、再々利用する。
そのシステムを維持するためには、厳しい秩序、規範、道徳が求められる。しかし、内部では、強く相互依存する。
明治以降、日本は、基本的生産物が、農作物から、製品づくりを主とする工業・産業社会へと変貌したが、企業・会社組織・体制は、江戸時代的「村社会」であった。
追記)村の働き手は、根こそぎ都会にさらわれていった。そして、彼らは都会に会社という村社会を形成していった。
それが、バブル崩壊以降、村社会体制、村社会意識は崩壊し始めた。つまり、正社員をリストラし、非正規労働者(よそ者)を大量採用し始めた。使えない人員は"廃棄"処分する。
組織内、企業内、日本国内に限定という、村社会意識の変貌、崩壊である。別の言い方をすれば、グローバル化(内と外の壁崩壊)である。
世界中にグローバル化が押し寄せている時代にあっては、村社会意識の変貌、崩壊は、当然の流れであろう。ガラパゴスではいられない。海外勢と競争する工業社会、資本主義社会ではもはや企業単位の村体制は持続できない。
追記)企業を中心に担われていた村社会が崩壊して、人員をゆったり抱え込める企業が激減して、ニート派遣労働者非正規労働者が激増している。
では、日本の社会体制をどんなものに作り変えていこうとするのだろうか。政治家たちは一向に首尾一貫した明確な政策を打ち出さない。それへの展望のなさが、社会を不安に陥れている。
ただ、スウェーデンのように、税金を、「国税である消費税(付加価値税)の標準税率は25%。地方税(地方所得税)の平均税率は31.52%」とすれば、「村社会」は実現可能である。
注)抜粋引用from"スウェーデンレポート - スウェーデンで見た「福祉国家」の実態〔2011年6月13日公開〕 ― フォーラム日本"
日本は、北欧のような「村社会」(ある意味社会主義:平等重視)への回帰の道か、それとも、個人の責任(自由主義:競争重視)に委ねるのか、どちらの道を進もうとしているのだろうか。
つまり、日本の基本的スタンス、社会主義的社会にしたいのか、自由主義的社会にしたいのか。これは、税制度、社会保障制度の根幹に関わる問題である。
そのスタンスを問う時期がもうとっくに来ていたのだ。このスタンスが決まれば、さまざまな事柄が自ずと決定してゆく。
追記)それを要求するかのような事件(年金関係、社会保障関連)が頻発したが結局何も変わらずにうやむやに終わった。
だが、自民党は、今まで、是々非々の、その時々で、うなぎのように、ドジョウのように、スタンスを微妙に変えて、乗り切ってきた。これは、基本的には、嫌なことは先送りするという姿勢である。
そして、国民の前に財政出動という形で、人参をぶら下げながら、何も決定せずに、前へ前へと歩ませて、時を稼ぐ。
今回、国民が、自民党に決定権をもたせたのは、こういう意味だったのだろう。ここで、自民党が次々と決めていかなかったら、"ぬえ"そのものだとして自民党の没落が待っている。
国民の側が、政治家たちに、日本の未来を設計してほしいと、もっともっと声高に叫ぶべきである。日本の未来を、勇気を持って、堂々と、問う政治家が登場してくれることを願う。
そんな政治家かなあと思っても、すぐさま、馬脚を現す。希望をとてもじゃないが託せる相手でないと、露見する。