真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

資本主義は知価主義に遷移しつつある

私は、以前(2014/03/05)に、「資本主義は共有主義に遷移しつつある」という記事を書いた。
でも、よくよく考えると、私自身が、資本主義とは何なのかということをあまりよくわかっていない。
ということで、資本主義についておさらい。
1)「カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した」。
2)「社会に貨幣を投下し、投下された貨幣が社会を運動してより大きな貨幣となって回収される場合、この貨幣が「資本」とよばれる」
3)「資本の運動が社会のあらゆる基本原理となり、利潤や余剰価値を生む体制」。
引用from"資本主義 - Wikipedia"
1)「近代的な銀行制度や株式市場が整備されてくると、資産家が提供した資本(工場・機械)に賃金労働者が雇われ労働を行うという、資本と労働の分離が広く社会にみられるようになり、そして、労働から分離された資本が、それ自身がまるで自律した意志を持つかのように振る舞い、社会に大きな影響を及ぼすようになった」
2)「農家や職人や個人商店などの自営業が社会の主流であった時代、資本(農地・農耕器具など)の所有者とそれを活用し富を生み出す労働者は一致していた」
引用from"資本主義とは (シホンシュギとは) [単語記事] - ニコニコ大百科"
資本主義では、少数者の持つ「生産手段」(資本)と、生産手段を持たない多数の「労働者」に「分離」する。
ところで、私は、「資本主義は共有主義に遷移しつつある」と述べたが、「資本主義は知価主義に遷移しつつある」と言い換えたい。
というのは、現代の先進国では、労働者が、生産手段を確保しつつあると感じるからである。もちろん、労働者が持つ生産手段とは、工場・機械(物的設備)のことではない。
比喩的に言えば、先進諸国では、企業の持つ「生産手段」と「労働者」の関係は、「パソコン」と「ソフト」の関係に移行しつつある。パソコンは、生産され始めた最初の頃には、ソフトよりも機器そのものにはるかに大きな生産手段としての価値があった。
だが、今や、それが逆転して、「パソコンはソフトがなければただの箱」と化しつつある。つまり、生産手段は、労働者がいなければ、ただの鉄屑である。
そんな時代が知価主義社会である。例えば、極端な例として、グーグルでは、生産手段と呼べる資本(工場・機械)はほとんど存在せず、人智の塊が会社組織(生産現場)である。そこでは、極めて優秀な人材を採用することこそが、成長の源であり、存続の源である。
極めて優秀な人材が、持てる能力をフルに発揮する場を提供することが、企業の役目になる。もちろん、目標の共有による個々の能力を集中化する方法・手段を提供することが不可欠ではあるが。そうでなければ、個性ある人材群は空中分解してしまう。
すなわち、そこでは、知、知識・情報、知的能力、個性が、生産手段(資本)そのものである。そんな社会を知価主義社会と呼ぶ。
工場・機械などの物質的設備が生産手段と考える資本主義から、知的能力が生産手段と考える知価主義へと時代が進みつつある。
それに対して、トヨタでは、生産手段とは、今でも工場・機械設備である。そんなトヨタでも、これから、自動運転が一般化され、情報機器を満載する車になれば、機械部分よりも、ソフト部分のほうが主役になるという、比率の逆転が必ず来る。
そうなれば、トヨタでさえも、機械操作をする工場労働者よりも、オフィスでのソフト制作者の方が数で上回る日が来るだろう。
日本では、バブル崩壊頃から、明確に着実に知価主義社会へと進みつつある。それは若者文化が表舞台に現れたことで示されている。
ということで、私は、以前(2014/05/21)、「子どもの教育を重視するならば、父親は家に返ろう」という記事を書いた。
知価主義社会では、グーグルやフェィスブックという企業が象徴するように、工場・機械が生産手段であるよりも、人智が、生産手段の位置に来る、中心に来る。
これは、こどもへの教育が、子供自らを生産手段(資本)とするという人材づくりである、ことを意味する。しかも、学校教育などの既成の教育内容では、知価主義社会にはまったく適さない。
それぞれのこどもの個性に合った、オーダーメードのカリキュラムを、各家庭が作成しなければならない。お仕着せの学校教育内容では、子供に単なる既製服しか着せられない。
親の能力や意識の高さによって、子供の伸びる知的能力の幅が決まってくるという時代になろうとしている。
もはや、親は会社人間ではいられない、子供の将来を本気で気遣うならば。会社人間で在り続けて、家庭崩壊させている場合ではない。
これは、個々の家庭、個々の子供のためばかりではなく、国の存亡にも関わることでもある。