真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

なぜ俳句は豊かな内容を表現できるのだろうか

私は、「無料で学べる大学講座」を提供するサイト、「gacco」で、講座を視聴している。最初の講座、「日本中世の自由と平等」を視聴してから、完全にはまってしまった。
注)gacco The Japan MOOC | 無料オンライン大学講座「gacco」
今は、大手前大学教授による、「俳句」を視聴している。私は、俳句に興味があったが、ゆっくりじっくり学んだことがなかったので、とても興味があった。
今日は、それを一回目を聞いての受け売りである。
文字(ひらがな)数が、5-7-5-7-7などの形式を持つ、和歌は、和歌から、連歌へ、連歌俳諧連歌へ、俳諧連歌は俳句へと人気(流行)が、変遷していった。
注)和歌には、その名前からも伺えるが、漢詩への対抗心がある。ある意味、勢力争い的な要素が潜んでいる。
変遷の理由は、形式化、形骸化、陳腐化するからである。
つまり、決まり事が、時代を経ていく内に、どんどんと積み重なり、その決まり事を覚えていないと、その仲間に入れないし、無知とそしられる。
つまり、和歌から連歌へ、連歌から俳諧連歌へと、俳諧連歌から俳句へと人気(流行)が、変遷していったのは、いわば、下克上である。
伝統的文化を担う層に対する、新興勢力による文化的下克上。それらを担う階層が変化した、時代の主役が交代したということでもある。
例えば、平安貴族から室町武士へと下克上(クーデター)したのと同じ原理である。
私は、俳句に興味があったが、その興味の中心は、なぜ俳句はこのように短い表現なのに、こんなにも豊かな内容を表現できるのだろうかということだった。
その理由が、今回講座を聞いて氷解した。結論を言えば、歴史を背負う言葉を使うからであった。
例えば、「秋の夕暮」という言葉は、「悲しい、寂しい」という意味を含ませるという状況で使われ続けたことによって、「秋の夕暮」は、「悲しい、寂しい」という意味を獲得確立した。
その結果、少ない言葉数で、表現できる内容が豊かになった。
これは、例えば、「棚からぼた餅」や「酸っぱいブドウ」のように、繰り返し使われることによって、短い表現で、ある状況を説明できるのと同じ原理である。
しかし、「棚からぼた餅」と「秋の夕暮」とは、少し原理が異なる。「棚からぼた餅」では、文字通りの意味で解釈する人はいないが、俳句では、「秋の夕暮」という表現の場合には、文字通りの意味と、裏面に張り付いた意味との両方を生かす。
「秋の夕暮」は、「秋」(季節)、「夕暮れ」(時刻)、「悲しい、寂しい」(心情)の、全てが表現の中に活かされる。
ということで、少ない言葉数で、表現できる内容が豊かになる。
テーマから少し外れるが、外国語や外国の文化を、真に理解するのが難しい理由がここにある。繰り返し使われる言葉は、文字通りの意味以外に、さまざまな意味が裏面に張り付いてゆく。
言葉は、使われることによって、文字通りの意味以外にも、さまざまな意味や心情や履歴が付加されてゆく。
この裏面に張り付いた意味をもしっかりと理解していないと、相手の真(心)の意味を捉え損なう。
俳句のように極端に短い詩が成り立つのは、そして、素人の間でも盛んに詠まれるのは、日本の同質性の高さが支えている。
つまり、日本人は、言葉が使われることによって、付加されてきた意味や心情や履歴を国民間で共有する度合いが極めて強い。
外国では、他民族によって、侵略されて、自国の歴史が崩壊したり、他国の歴史が深く侵入してきたりして、分断されたり、途切れたりすることが多かった。
そんな一本道の歴史を踏まえて生まれてきたのが、世界で最も短い詩の形式を持つ俳句である。この短い俳句形式が、世界にもじわじわと浸透しつつある。
なお、俳句は鑑賞者に豊かな観賞をする余地を与えるのが良い歌であると言われる。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」by「正岡子規」では、
手元の柿(小)から鐘(中)へ、そして、空高くそびえる法隆寺(大)へと、視線を移動させて、法隆寺の向こうに見える秋空(広大)をも感じさせるスケールの大きさを持つ歌である。
また、この歌は、五感をも刺激する表現でもある。鑑賞する上で、柿は、触覚(手触り、歯ざわり)と味覚、鐘は聴覚、法隆寺は視覚を覚醒させる。
それに対して、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」by「石川啄木」では、
東海➝小島➝磯➝白砂➝蟹➝戯れるわれへと、はるか上空からどんどんと自分へと、視線をたぐり寄せる描写にはものすごいものがある。自己陶酔に似たものを感じてしまう。
注)この石川啄木の歌を聞くと、「小林一茶」の「我と来て遊べや親のない雀」を思い出す。
この短い歌の中に存在する、時間的、空間的な動きをも含み得る表現力を是非とも身につけたいものである。