真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

仏教と苦と自己実現と

前回、般若心経について考えたので、今日は、仏教について考えてみた。
まずはじめに述べたいことは、私が、仏教について常々感じていたのは、仏教ってとても暗いなあということだった。
仏教は、人生の暗い面ばかりを見つめている感じがするのである。多分、現在よりも、仏教が生まれた頃には、あるいは、それまでは、悲しい出来事で満ち溢れていたのかもしれない。
仏教では、「生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つ(生老病死)の苦。人生における免れない四つの苦悩」にある人々を、救うことを願った、そしてそれは今なお続いている。
ところで、「掬(スク)う」とは、水面下にある何かを、水面上に引き上げることである。例えば、金魚すくいとか。
「救う」のも同じで、ゼロの位置より下にいる苦しむ人々を、ゼロよりも上に引き上げることである。
つまり、地獄で苦しみにのたうつ人々を救い上げることが、仏教(あるいは、宗教一般)の目的であり、願いであろう。
では、どういう方法でなのか。事実は変えることができないとしても、その事実をどう解釈するか、その事実をどういう視点から見るかは変えられる。
それについては、前回述べたが、四苦(生老病死)を、"色"の視点から見るか、"空"の視点から見るか。その転換点が、悟り(身心脱落)である。
それは、単に、私のように、頭でだけわかっていてもだめで、体感(悟りを開く)しなければならないが。
この視点の転換は、仏教だけでなく、心理学でも、苦しむ人々を立ち直らせるきっかけである。
つまり、表に現れる現象をどう捉えるか。心理学でも、どう解釈するかを問いかける。
そこまでは前回で述べたので、では、仏教(宗教一般)や心理学で、苦の中にあった人々を引き上げ、救い出した後はどう導いていくのだろうか。
それに対して、かなり明確に答えを出しているのが、私も何度も取り上げた、心理学者・アブラハムマズローである。
彼は、人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものであるとして、人間の欲求を5段階の階層で理論化した。
その自己実現とは、「個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」(from自己実現とは - はてなキーワード)である。
私が、前回(2014/09/17)、このブログで、"般若心経の「色即是空、空即是色」"、という記事を書いたことを述べたが。そこから引用。
「「空」を、宇宙全体の物質的存在(特に素材としての状態)、それに現象や形を与える諸々の法則をも含む、宇宙全体」
つまり、空とは、ありとあらゆる素材がいっぱい詰まった宝箱である。
個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きるという自己実現とは、空に手を突っ込んで、そこから、自分の潜在的可能性を最大限に実現できる素材を見つけ出し、それを自分の個性を表現できる製品に作り上げていくことである。
あらゆる存在(生命と否とを問わず)は、空の中で、ひとときを遊ぶ。それを読んだのが芭蕉である。
古池や蛙飛び込む水の音。
閑さや岩にしみ入る蝉の声。
この中で、蛙や蝉を、色と見て、古池や岩を空と見れば、色(蛙や蝉)が、空(古池や岩)の中で、自己実現する(飛び込む、鳴く)姿を詠んでいるとも考えられる。
とすれば、何も自己実現を目指しているのは、人間だけではないのである。生きとし生けるもの、無生物でさえ、自己実現しているではないか。
空とは、存在が、自己実現する場所である。
仏教では、「草木国土悉皆成仏(草木や国土のような心識をもたないものも,すべて仏性を有し、ことごとく仏となりうる)」という。
仏性を、潜在的可能性と捉え、成仏を、潜在的可能性を最大限に実現する行為と捉えれば。桜の種が、桜の木に成長するのは、潜在的可能性を最大限に実現する行為であるのだから。
人間にとっての成仏は、自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きるという自己実現であろう。