真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

チクセントミハイのフロー理論と日本の禅

最近、私は、このブログで、"gacco"の話題を何回か取り上げた。今日もそこから取り上げたい。脳科学者の茂木健一郎氏が、"gacco"で、「脳と創造性 Creativity and the brain」の講座を開設した。
その第一週目の講座を今日視聴した。その中で、フロー理論を知った。創造は気づきである。その気づきを得られる状態が、フロー状態だという。
ということで、フロー状態について調べてみた。特徴(構造)を引用from"「「没頭」がヒントになる ―ミハイ・チクセントミハイのフロー理論―」from"future-ed.net""。
1. 目前の状況に対する強い没入
2. 行為と意識の融合
3. 内省的自意識の欠如
4. 自分が状況や活動をコントロールしているという感覚
5. 現実体験の歪曲、特に時間感覚の変化
6. 自己目的的体験(活動すること自体が価値があると感じられる体験)
これを見て、禅を思い浮かべた、思い出した。
「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし」(by道元)。
引用from"「曹洞宗東海管区教化センター」"(上記の言葉の意味は、このサイトに説明されている)
これは要するに、「自己と対象が一体化し、そのものに成りきる」(引用from同上)ことである。これは、フロー理論の1. 目前の状況に対する強い没入、2. 行為と意識の融合、3. 内省的自意識の欠如とが合致しそうである。
哲学者の西田幾多郎も同じようなことを言っている。
「色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいふような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいふのである。
それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」(by西田幾多郎)。
西田幾多郎は、道元の上記の言葉を思い浮かべながら、これを述べたのかもしれない、と感じられる。
私は、以前(2010/05/19)、このブログで、「高い集中は、不必要な意識を排除する能力から生まれる」という記事を書いた。そこから引用。
1)「「心は何処に置くべきぞ」。我答へて曰く
「何処にも置かねば、我身一ぱい行きわたりて、全体にひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、その入る所々の用を叶ふるなり」。
「万一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用を欠くべきなり。思案をすれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其所々にあって用をば外さず叶ふべし」」(「沢庵宗彭」禅師の「不動智神妙録」)
2)「(弓の指導者阿波師範)「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨て去ることによってです」。
(師範の言葉)「弓の弦を引っ張るのに全身の力を働かせてはなりません。そうではなくて両手だけにその仕事をまかせ、他方腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるで関わりのないようにじっと見ている」と」(ドイツの哲学者「オイゲン・ヘリゲル」の「弓と禅」)
私には、ミハイ・チクセントミハイのフロー理論、道元の言葉、西田幾多郎の言葉、沢庵和尚の言葉、弓の指導者阿波師範の言葉、は同じ精神状態を指しているのだと思える。
一芸に抜群に秀でた、抜きん出た人々は、ともに、同じ高度な精神状態に至る能力を身につけたのだろうと感じられる。そうならば、もともと人間には、そのような「高度な精神状態に至る能力」を開花させる潜在的可能性を秘めているのではないだろうか。
1)チ「クセントミハイ」の「フロー理論」(アマゾンからの本の紹介)
2)「沢庵」の「不動智神妙録」(アマゾンからの本の紹介)
3)「オイゲン・ヘリゲル」の「弓と禅」(アマゾンからの本の紹介)