真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

私にとっての終活とは...

終活という言葉を、最近、耳にするようになった。66歳になった私にも大きな問題である。
Wikipedia(「終活」)では、「「人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味する言葉」、と定義している。
私も、自分の人生の総括を無意識的に繰り広げようとしているのだなあと、自分のブログ記事内容を見ながら、そう思えた。ということで、今日はそれについて書きたい。
私は、去年あたりに、息子に、私の葬式に対する希望を伝えている。私は、家族葬自然葬を望んでいる。私は、秋川雅史氏の「千の風になって」を聞いて以来、墓は無用だと感じた。
注)秋川雅史氏の「千の風になって」は、「2006年の第57回NHK紅白歌合戦への出場を機に一般的に知られる」
更に、自分の人生を振り返ってのことも書きたい。私は、このブログで、A)「自分の人生を振り返っての自己分析」(2014/11/22)、という記事を書いた。そこから引用。
「私のこれまでの人生を振り返ってみると、私の心を強く捉えていた課題は、1)「人の成長」「宇宙の変化原理」を見出すことと、2)「子育て」だったなあ、と思えてきた」。
また、私は、このブログで、B)「64歳になった今感じていること、思っていること」(2012/09/05)、という記事も書いた。そこから引用。
「最近その向かう方向が、自然(Nature)だなと思えてきた。自然の懐にゆっくりやすらぎたいという気持ちが強くなってきた」。
前回(2015/03/17)、私は、このブログで、C)「「茶色い子犬が私の手のひらで眠っている」夢を見て感じたこと思った」、という記事も書いた。そこから引用
1)「スヤスヤと眠っていた子犬が目を覚ましたのだ。私の中でずーうっと眠っていた子犬が目を覚ましたのだ。子犬は、目を覚ますと、もちろん、母親を探す、おっぱいを求めて」
2)「私は末っ子だが、母親に甘えられずにいた。多分、母親はいつ見ても、忙しそうに働いていたからだろうと思う。私が目覚めた頃には、もう忙しそうに動きまわっていた。私が寝る頃でも何やかやとからだを動かしていた」
3)「私の人生を振り返ると、相手に甘えることができないでいた、特に女性に対しては。だから、私は、「甘え」(母親のおっぱいを求める子犬)を封印、眠らせていたのかもしれない」
私にとって、親(特に母親)に「甘える」とは、「ある時間、母親を完全に独占する」ことであった。しかし、私の母親は、いつもいつも家族みんなの母親であった。
私は、母親から愛されていたことは無意識的に感じはするのだが、懐にゆっくりやすらぐ体験はほとんどなかったのかもしれない。
私は、母親のそばにいることだけで満足しようと考えたように思える。その結果か、私は、誰に対しても、深い関わりを避けて、距離を置くようになった、心理的な距離を。
そのようにして、私は、一匹狼的な心情を身につけてしまったようだ。それは、私に観察力を授けたかもしれない。
でも、その心情は、私に、自分の家族(子どもや妻に対して)に対して、頼る、依存する、甘えることを許さなかったようだ。
記事B)で、「自然の懐にゆっくりやすらぎたいという気持ちが強くなってきた」と書いた。私が宗教信者ならば、「自然」ではなく、「(具体名を伴った)神」と書いただろうが。
「懐にゆっくりやすらぎたい」は、頼る、依存する、甘えることだろう。とすれば、64歳になった頃から、徐々に、「頼る、依存する、甘える」気持ちが芽生えていたのだろう。
「頼る、依存する、甘える」気持ちは、寂しさ、悲しさが強く後押しをする。なお、寂しさ、悲しさを心に強く抱えた若者が、街中へとさまよい歩く。
すでに、甘えの課題が浮上するという伏線は、序章は、その頃から、敷かれていたのだ、書かれていたのだ。
そして、今年に入って、表面化されるとの夢からのお告げが来たのだ。幼いころに果たせなかった課題を今こそ実行する時だよと。