真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

「茶色い子犬が私の手のひらでスヤスヤと眠っている」夢を見て感じたこと思ったこと

私が、「茶色い子犬が、私の手のひらで、スヤスヤと眠っている」夢を見たのは、今年(2015年)の1月13日であった。
私は、毎日必ずと言っていいほど夢を見る方である。実際には、だれでも必ずと言っていいほど夢を見るのだが、起きた時点で夢見自体を覚えていないから、見ていないと思っているだけなのだが。
私は、目覚めた瞬間まで覚えているが、数秒で完全に忘れてしまうことがほとんどである。
しかし、心を動かされた夢、感情を揺さぶられ、感情を刺激された夢はかなり鮮明に覚えている。時には、私の人生観をも変えてしまったほどの夢も見たことがある。
この子犬の夢も目覚めた時に鮮明に覚えていた。それと、目覚めた時は、ほんわかとした温かい癒された気持ちに浸っていた。
夢はメッセージであるが、この子犬は何を意味するのだろうか。最初に思い浮かんだのは、長女が現在妊娠中で、その赤ん坊に関するものだろうかと思った。
だが、その考えに、しっくり感がない、腑に落ちた感がない。何となくそうではないように思えた。他に思い当たることはなかった。心に引っかかったままになっていた。
参考)「フォーカシング(Focusing) は、静かに、心に感じられた「実感」に触れ、そこから意味を見いだす方法」「この方法は、心理療法や自己理解、夢理解の方法」引用from「日本フォーカシング協会 | フォーカシングのネットワークグループ
ところが、ほぼ2ヶ月後の、3月16日に謎が解けた。その子犬は、実は、「私」だった。それが分かった過程を少し話したい。
3月12日に妻と梅見物に出かけた。でも、朝から気力が出ない。前日には、カメラのバッテリーを充電し、写真を撮るぞという意欲はあったというのに。
翌日(13日)、妻は朝から出かけた。妻が出かけた頃から、私の心の中に、寂しさが染み出してきた。寂しさがつのり始めた。気力が出ない理由はこれだったのだろう。
いてもたってもいられずに、妻に、"Line"で、「寂しい」とメールした。
妻は、「どうしたの?」と、飛んで帰ってきた。帰ってきた時、私は、おにぎりをむしゃむしゃとほうばっていた。妻はぷりぷりと怒ったが、買ってきた、シュークリームを二人して食べた。
でも、この時点では、この私の気分(出来事)と、あの子犬とは結びつかなかった。
だが、16日に、私は、妻にすねて甘えている自分を発見した。その行為を思い返して、はっと気づいた、あの子犬は、「私」だと。
スヤスヤと眠っていた子犬が目を覚ましたのだ。私の中でずーうっと眠っていた子犬が目を覚ましたのだ。子犬は、目を覚ますと、もちろん、母親を探す、おっぱいを求めて。
私は、母親が母乳が出ずに、重湯で育てられた(母親からそう聞いた)。
私は末っ子だが、母親に甘えられずにいた。多分、母親はいつ見ても、忙しそうに働いていたからだろうと思う。私が目覚めた頃には、もう忙しそうに動きまわっていた。私が寝る頃でも何やかやとからだを動かしていた。
(私は、そんな母親に優しい言葉一つかけたことがなく、不満な思いすら感じていた。何たる親不孝な子供であったのか)
私は、いつも一人で遊んだ、小学校入学するまでは。
私の人生を振り返ると、相手に甘えることができないでいた、特に女性に対しては。だから、私は、「甘え」(母親のおっぱいを求める子犬)を封印、眠らせていたのかもしれない。
注)といっても、子犬はいつも甘えを意味するとは限らない。
注)「私が、人生に向き合ったのは、「人(実際には子ども)の成長はどのように進むのだろうか」という疑問をいだいて、カウンセリングを学びたいと、仕事をやめた時からだった」引用from"自分の人生を振り返っての自己分析 - 真 夢人 日記"。でも、自分の中の子犬はごくごく最近まで成長させられないままだったのは皮肉だ。
ちなみに、茶色は、
1)「安定している印象を与える。緊張を緩和する。堅実さや信頼感を与える。温もりを感じさせる。伝統や歴史を感じさせる。コツコツと物事を継続させる」。
2)「温もり、安らぎ、安心感、安定、温和、穏やか、頑固、堅実、自然、秋、渋い、重厚、生命、素朴、大地、地味、伝統、保守、力強さ、退屈、陰気、汚い」。
引用from"茶色のイメージ効果と意味"
私が、目覚めた時は、ほんわかとした温かい癒された気持ちに浸っていたのは、茶色(温もり、安らぎ、安心感、安定、温和、穏やか)から来るのかもしれない。
注)茶色から、子供の頃(小学生頃?)、母親が編んでくれた、胸に大きな鹿の模様が入った、茶色のセーターが大のお気に入りであった、ことを思い出した。
ちなみに、「手のひら」から、私は、「西遊記」の「孫悟空」を思い出す。孫悟空は、ある時、雲の彼方におかしな山がいくつかそびえているのを発見した。なんだろうかと知りたくなり、そこへ飛んでいくがなかなかつかない。
ようやく着くと、それが、お釈迦様の指であり、自分は、お釈迦様の手のひらで遊んでいたと知る。手のひらの上での行為は、コントロール可能な範囲での行為だという意味である。
それを考えると、私の甘えは、制御可能な程度だと知れる。これからは、妻にどのように甘えてみようかなあ。