真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

老子と莊子と道元と、皆友達

私は、以前(2015/05/15)、このブログで、"「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると、莊子は言うが。"という記事を書いた。
これは、NHKの番組、"名著43「莊子」:100分 de 名著"、の二回目分を録画視聴して、書いたものであった。それの完結編の第4回まで見たので、今日はそれらをおさらいしたい。
参考)"名著43「莊子」:100分 de 名著"、毎回のテーマは、四回(25分✕4回)で完結する。
なお、各回の題名は、第1回:「人為は空しい」、第2回:「受け身こそ最強の主体性」、第3回:「自在の境地「遊」」、第4回:「万物はみなひとしい」。
その前に、補足的に述べると、「道」と「無為自然」は、老子の思想用語である。そして、荘子老子の後継者/追随者である。だから、まとめて、「老荘思想」と呼ばれる。ということで、莊子の思想だけを取り上げてはいない。
第1回:「人為は空しい」(無為自然)
「道(タオ)」(根本原理)は、(宇宙全体の)万物を生み出しその働きを支配する(原理である)。
「人為」と対になる「無為」との関係は、「迷い」対「悟り」、「無明」対「光明」、「人が作ったルール」対「道(タオ)」である。
もう少し詳しく説明すると、老荘は、人間が生み出してきた、思想、ルール、価値を元にして、縛られて生きる行為を、人為と呼ぶ。
それに対して、宇宙全体の万物を生み出しその働きを支配する根本原理で動くことを、無為と呼ぶ。無為自然とは、そのような根本原理で動く宇宙(流転)のままに任せることである。
つまり、人間だけに通用する思想、ルール、価値を元にして生きる人為と、宇宙全体に通用する道(タオ:無為自然)に従って人生を送るかである。
道元は、そのことについてこのように言う。
「心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」
なお、「わが身をも心をもはなちわすれ」るためにする行為として、座禅があり、瞑想がある。
莊子の言う、「坐忘」とは、「身心を脱落放下して根源的な「道」と冥合し、「物」すなわち外物と「我」すなわち自己とが一体化した境地」をいう。(引用「コトバンク」)
参考)「自然とは、具体的実在から主観的統一作用を除き去ったものである。それ故自然には自己がない。自然現象の統一は精神現象における内面的統一ではなく、時間空間上における偶然的連結である」(引用from西田幾多郎善の研究」)
第2回:「受け身こそ最強の主体性」
受け身こそ最強の主体性というが、では、誰かの命令を受けて、それを実行するだけの受身的存在を良しとするのか。
莊子の言う「受け身」とは、人為(人間界)での受け身ではなく、無為(「道(タオ)」(根本原理)レベルでの受け身、タオの支配には受け身であるが、人に対しても受け身ではなく、無為に叶うように人為に流されないように主体的に生きる。
第3回:「自在の境地「遊」」
「用」対「遊」は、人為対無為である。人為的には無用(無価値)であっても、無為的には有用である行為や態度が、「遊」である。
人は、用(仕事)のために動きがちなので、心が死なないように、遊(趣味、余暇、レクリエーション)に没入する必要がある。
第4回:「万物はみなひとしい」(万物斉同)
万物斉同の意味は、「人の認識は善悪・是非・美醜・生死など、相対的概念で成り立っているが、これを超越した絶対の無の境地に立てば、対立と差別は消滅し、すべてのものは同じであるとする」(引用from"四字熟語辞典 - goo辞書")
まとめ的な言葉として、比喩的な表現をすれば、時計の針である。それには、秒針、分針、時針がある。例えば、同じく数字の「四」を指し示していても、秒針、分針、時針では、それぞれ意味が異なる。
秒針=20秒、分針=20分、時針=4時。秒針も、分針も、時針をも、すべてを見られる位置にいて初めて、正確な時を知ることができる。
幼い子どもたちにとって、秒針、分針、時針のそれぞれが指し示す、位置を総合して、統合して、時を読み取ることができるのは、大きな喜びだろう。
なお、「人為は空しい」と莊子は言うが、私には、「人為だけでは空しい」と言い換えたい。無為自然の道を渡りつつも、美味しいお菓子が食べたい。