真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

私のキリスト教への絶望も、解消された

私の人生の後半の目的、目標は、宗教でした。それを明確に意識し出したのは、次のような経験をしたからであった。
私は、瞑想で、「自分の前世は何だったのだろうか」と、答えを求めた。
すると、「イギリスのキリスト教の修行僧で、絶望して山(森)に入って二度と出て来なかった」という返事が返って来た。
そこに出て来る「絶望」の内容をもっと具体的に言うと、「修行の目的は何であり、修行の結果としてどうなるのだろうか」という疑問に対して、誰からも、どこからも、明確な答えが得られなかったことによる、キリスト教(宗教)に対する絶望から、 山(森)に入った、ということであった。
しかし、私の絶望を解き放ってくれる答えが、日本にあるということで、私は日本に生まれた。
ここで、今日のこのブログ記事の最初(私の人生の後半の目的、目標は、宗教でした)に戻る。
注)宗教と言っても、実践の方ではなく、ほとんど理論をひねくるだけだったが。
私は数々の本を読んで行く中で、道元に出会った。私が道元に強く引かれたのは、彼も、私とよく似た疑問を抱いていたからであった。
参考:私が長年追い求めてきたもの - 真 夢人 日記
彼の疑問は、「人間は、本来仏であるのに、何故あらためて修行して仏にならなければならないのか」、という疑問であった。
彼は、その疑問に対して、納得できる答えが得られなかったので、その答えを求めて、中国に渡り、そこで修行して、悟りを得て、帰国した。
そのことによって、私は、「修行の目的は、悟りを得ることだ」、とはわかった。
が、では、その悟りを得るとは、具体的にはどうなることなのだろうかということが、明確にはわからないでいた。
これについては、前回、このブログで、以心伝心ということで、説明したように、人間を、肉体とたましいの二重(二層)構造だと見なすことで悟りとは何かを説明した。
参考)前回の私のブログ記事「拈華微笑と仏教の目的」
つまり、悟りとは、肉体(自我)が握っていた主導権を、たましいが奪い返した瞬間を表現したものである。
たましいを、仏から譲り受けた心と、解釈すると、 道元の発した、「人間は、本来仏であるのに、何故あらためて修行して仏にならなければならないのか」、という疑問への答えとしても、納得できる。
参考:「梵我一如」
そして、何よりも、それによって、私のキリスト教への絶望も、解消される。