真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

日本のハロウィーンの意味するもの。

テレビで、大々的に、10月31日に行われた、東京渋谷での、ハロウィーン仮装行列を報じていた。ということで、今日は、このハロウィーンの意義を考えてみたい。
先ずは、ハロウィーンの説明から。これは、
「毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭のこと。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている」引用from"ハロウィン - Wikipedia"
日本のハロウィーンは、アメリカからの輸入であったが、もうとっくに日本人お得意の、日本化してしまっている。
私には、日本のハロウィーンのお祭りから、「共有」、という言葉をイメージした。
人間は、社会的動物なので、お互いに、なにがしかを共有せずには、生存できない。
場の共有、時の共有、思いの共有、知の共有、物の共有などなど。
人類は、血の共有(血縁)から始まって、その拡大版である、地の共有(地縁)へと拡がり、今や、本を介して、ネットを介して、思いや知を共有する知縁へと拡大している。
血縁や地縁は、リアル世界での共有であったが、ネットを介しての知縁では、もはや、仮想世界の中での共有である。
日本のハロウィーンには、そんなバラバラになった、都会人達の、共有の場、共有の時、共有の思いを、結合させる、結節点、粘着剤の役割を負っているのではないだろうか。
もともと、祭の大きな意義は、普段はバラバラに忙しく働く農民が、共有意識を再確認する機会であっただろう。そう考えると、運動会、体育祭は、祭である。
会社にあっては、社員旅行は、祭である。親戚の人々にあっては、葬式や結婚式は、祭である。
世界が共有する最大の祭が、オリンピックである、といえる。
ところで、祭には、見る祭と、参加する祭とがある。祇園祭とか、ねぶた祭りとかは、地元の、ほんの一部の人にとっては、参加する祭ではあろうが、大多数の人々には、見る祭でしかない。
地域、地域に存在する地蔵を拠点に開かれる盆踊りは、参加する祭である。そんな地蔵もない都会。しかし、あの日本のハロウィーンは、そんな都会人にも、簡単に参加できる祭に、変わりつつある。
ネットの普及によって、仮想世界は、大きく膨脹している。さらに、瞬時に、世界の果てまで、行き着けるが、それはガラス越しでしかない。生に、直に触れることができない。
そんな歯がゆさがある。そんな、生に、直に触れ合えるリアル世界の良さが、意識されはじめたのではないのだろうか。
仮想世界での共有から、仮装することで、リアル世界の共有を実現するというのも、面白い話題である。
参考)T.M.R.西川VSホリエモン「ハロウィン論争」勃発? 「大人がコスプレして練り歩き」はダメなのか : J-CASTニュース