真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

実存主義って何だ。

NHKで、「100分で名著」という番組を放送している。今回には、哲学者、サルトルの著書、「嘔吐」が取り上げられていた。
サルトルは、実存主義をとなえたことで有名になった。ということで、今日は、この実存主義を考えてみたい。
先ずは、定義から。「実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想である」引用from「実存主義 - Wikipedia
自分のブログ内で、実存主義という言葉を何回ほど使っているのか、検索をかけてみると、0回と出た。これには、自分でも意外だった。
実は、自分の中で述べた表現を基に、話を展開するつもりでいた。当てが外れてしまった。
ということで、先ずは、実存主義にまとわり付く言葉を挙げてみる。
自由。不安。孤独。個人(主義)(⇔社会[集団])。偶然(⇔必然)。自分探し。本質(規定)がない。自立(⇔依存)。意志(⇔無意識)。
サルトルは、1905年6月21日に生まれ、1980年4月15日に没した。日本の1905年(明治38年)は、日露戦争の年であった。
科学は物事に必然を見出だす。だから、科学は普遍性を持つ。物(肉体を含めて)は必然を持つ。必然の世界では、同じ原因からは、必ず同じ結果が生じる。
ところが、心は偶然を持つ。心は、意志を持つので、選択できる。だから、必然を切ることができる。十人十色である。
必然は安心をもたらす。必然は常に同じ結果をもたらすから。ということは、偶然は不安をもたらす。
自由とは、規則を持たない(偶然が支配する)ことである。だから、結果が見えない、読めない。だから、不安をもたらす。
実存主義は言う、自分を規定するものは一切ない。だから、本質さえもない。よって、自分探しは無意味である。
注)「規定」とは、「物事を一定の形に定めること。また、その定めた内容」である。
自分探しとは、自分の中にある本質を探し出す、見つけ出す旅である。
本質とは、物事の中にある最重要な要素であるが、それがあれば、物事を規定するので、「自分を規定するものは一切ない」に反する。
例えば、椅子は、「座るもの/こと」が本質である。がしかし、実存主義では、「座るもの/こと」という規定を取っ払う。と言うよりも、そんな規定や本質はないとする。
椅子を、自由に、踏み台として使い、花瓶を置く台として使い、太鼓として使い、などなどする。
他人から、一切、指示や命令が与えられないことである。全てを、自分で、自分の意志で決めなければならない。
だから、孤独であり、個人主義である。だがしかし、人間は社会的生きものである。社会の中でしか生きられない。
社会の中で生きるということは、必然を受け入れることである。こういう時には、こうする、ああいう場合には、ああする、という規定、規則を受け入れることである。
自由を制限することである。自由と規定のはざまで、右往左往することである、揺れ動くことである。
社会、集団を受け入れることは、個人と集団のはざまで、右往左往し、揺れ動くことである。
ここからは、私の勝手な解釈であるが、そんな人々が社会の中で生きるとは、実存するとは、自己実現することである。だがしかし、かなり多くの人は、その前段階、社会の要請に沿うように生きている。
実存の生とは、自己実現とは、自分の中にある、潜在的可能性を、社会の中に実現させることである。
その潜在的可能性は、さまざまなことを挑戦する中で、見つけ出すべきものである。自分の心の庭を掘り返しながら、見つけ出すべき宝物(原石)である。
私達は、椅子として生まれてくるのではなく、その前段階である、木、樹、素材(潜在的可能性)のままで、この世に生み出される。その素材で何を創造するかは、あなたに委ねられている。