真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

「受け身」にこそ最強の主体性が宿ると、莊子は言うが。

私は、今日(2015/05/14)、NHKの、「名著43 「莊子」:100分 de 名著」(再放送版)、を見た。
その番組の中で、「「受け身」にこそ最強の主体性が宿る」、という言葉に心を引きつけられた。ということで、それについて考えてみた。
まずは、主体性という言葉の定義から。「自分の意志/判断で行動しようとする態度」である。次にはということで、主体性の反対語を調べてみた。
「主体的の反対は「反応的」」という表現に出会った。隷属性かなと思っていた。奴隷は、自らの判断や意思では動けない存在だから。
参考)「主体的の反対語」気づきと対話の中から | コーチング,NLP,ファシリテーションetc
反応的とは、選択肢がひとつしかない場合の態度である。選びとるべき選択肢がひとつしかなければ、反応的(反射的行動)にならざるを得ない。
選択肢が、例えば、4つあれば、「自分の意志/判断で」、主体的に選び取れる。でも、そんな場合でも、親からこれを選びなさいと、指示されれば、そして、その通りにすれば、主体性がないと評価される。
ここで、主体性とよく似た言葉として、自主性がある。がしかし、この場合は、自主性がないという評価ではない。
どこがどう違うのだろうか。どれを選ぶかの判断を自ら下すならば、それは主体性であるが、指示される前に、行動を起こすならば、それは、自主性である。
「受け身」、「反応的」は、受動性である。それに対する言葉は、積極性(「進んで物事を行おうとする性質」)である。
受動性、反応性、従属性。これらは、他からの言動に対応して動くことである。それに対する、主体性、自主性、積極性。これらは、他からの言動があってもなくても、それに左右されずに、動くことである。
ここまで言葉の意味について考えてきたが、ここからは、莊子の言葉、「受け身」にこそ最強の主体性が宿る、ということを考えてみる。
なお、「受け身」と「主体性」は、今まで示してきた定義などから判断すると、相容れない態度だと思えるのだが、どうなのだろうか。
その前に、指導者や上司などは、学習者や部下に、よく「自主性、主体性を持て」と説くが、莊子の言う内容とは逆のように思える。どちらが本当なのだろうか。
私の考えでは、どちらも本当である。でも、正反対で、矛盾するではないかと、思われるだろう。
それについては、私は、どちらの態度を選ぶかの漠たる境界線を引けばよいと思っている。つまり、自分の力、能力などで、なんとかなるのではないかと思える範囲内では、「自主性、主体性を持って臨む」。
しかし、自分の力、能力などでは、どうにもならないほどのどでかい相手(対象/組織)には、運命として受け入れると。
例えば、台風に対して、進路変更を企てることは、現段階では、不可能である。となれば、それを運命として受け入れ、自分が対処できる範囲内で、主体性を発揮する。
私には、莊子の言う言葉が、運命として受け入れたうえで、襲ってくる運命に向けて自分が対処できる範囲内で、主体性を発揮する、という内容を表現していると思える。
その辺りに関して、私は、以前(2015/04/28)、このブログで、「「医者に殺されない47の心得」(by近藤誠)を読んでの感想」、という記事を書いた。
そこから引用。
1)「私は、いまだにどちらを取るべきか迷う。つまり、「受け入れ(てい)る」か「現実を変えようとする」か、どちらの道を進むべきかに」
2)「私が一番迷うのは、「変えられない」という判断である。要は、この判断次第ではないのだろうか。闘って、勝利した場合は、万々歳である、見事変えられたのだから」
3)「しかし、戦いに数年以上の期間を要し、その期間に時間と費用とを多大に費やさねばならない。その結果が、負けでは、その気落ちはいかばかりだろうかと案じられる。それならば、いっそう、自然に任せて、 法爾させてゆく方がよいかもしれない。戦いに費やす時間と費用を、人生を有意義に過ごす(「気持ちを切り替え、別の価値観に目を向ける」)ことに使うならば、「いちばん楽そうな」人でいられる」
つまり、変えてやるぞと運命と戦うか、運命だから変えられないと諦めるか。
難しいのは、変えられるのか変えられないのかの判断である。
他人からは変えられると見えるのに、本人が、「自主性、主体性を持って行動しない」場合には、「自主性、主体性を持って臨め」との叱咤激励は、あって良いのではないかと思える。
だけれども、偉人や天才などは、凡人には、不可能に挑戦する、愚か者にさえ見えかねない。であっても、失敗すれば、やっぱり、単なる、ドンキホーテである。
補足)自然(生命)界では、突然変異という形で、変化への挑戦をしてゆく。であっても、それが進化という方向へと、実を結ぶのは本当に、千三にも満たない数であろう。さりながらも、ご存知のごとく、着実に進化の階段を登ってきている。