真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

空白の恐怖から無の恐怖へ

[無の恐怖]
◎以前、私は"空白の恐怖"を書いた。今日は、"無の恐怖"を書きたい。といっても、"空白"も"無"も同じような意味なのだが。
[空白は]
◎しかし、こじつけがましいが、空白は、本来色が付いているべき場所に何も色が付いていない、本来何かあるべき場所に何もないという感じである。何かで埋められるべき場所なのに、何もないという感じである。それ故、空白は何かで埋めたくなる。きれいな壁に落書きしたくなるように。
[真っ暗闇]
◎それに対して、"無"は色でいえば"黒"である。暗闇。真っ暗闇。それに引き替え、空白には、とにかく場所が確保されている。しかし、無は場所すらあるのかないのか分からない。何も見えない無の暗闇である。
[無より空白を向く]
◎そういう点では、空白の恐怖よりも無の恐怖の方がもう一段強烈だ。だから、私たちは、無よりもましな空白の恐怖と戦おうとする。別の言い方をすれば、無の方を見るよりは空白の方を向こうとする。
[最強の無は死]
◎けれども、実は私たちは、日々無の恐怖と戦っている。最大の無は、最強の無は、"死"である。死の恐怖は、自分が消えてしまうという恐怖である。炎のように、火が燃えている間だけ、生きているという感覚である。
[宗教は死を奨励]
◎その炎が消えてしまうという恐怖。死ぬとは無になることであり、無になるとは死ぬことである。しかし、宗教では、非情にも、生きている間に無になる、死ぬことを奨励する。
[生きている間に死ぬ]
◎一体、生きている間に死ぬ、無になるとはどういうことなのだろうか。宗教は私たちに何を求めているのだろうか。
[自我を死なせる]
◎宗教でいう、生きているとは、肉体が生きていることである。死ぬ、無になるとは、心、特に自我についていう。肉体の死は求めていない。勘違いされてきたけれども。つまり、肉体は生きていても、自我は死なせなさいと、宗教はいう。
[永遠・無限を求める意識]
◎では、自我とは何なのだろうか。自我とは永遠、無限を求める意識である。時間的に、空間的に、永遠・無限を求める意識である。"ここで終わりです、ここまでです"、といっても自我は決して満足しない。無限大、無限遠を創造する。
[物質的欲望]
◎人間に自我がある故に、それが物質に向かう欲望と結びつくと、つまり、自我が肉体(欲求の発生源)と手を結べば、無限に永遠に物質的欲望へと向かう。
[みんなほしい]
◎あれもほしい、これもほしい、もっとほしい、みんなほしいと、手に入れても手に入れても無限に切りなくほしくなってゆく。ごく最近、誰かが無邪気にも"世界一"に成りたがったように。
[精神は無形のものを求める]
◎精神は無形のものへと向かう。自我がそのような精神と手を組めば、例えば、知識に向かうと、知的好奇心となって現れる。しかし、知識に向かうならば、それはそれでよいのだが、精神が名誉へ向かうと、名誉欲となって現れる。
[高い席に着きたくなる]
◎精神が名誉欲へと向かうと、やたらと肩書きがほしくなる。高い席に着きたくなる。もっと高くもっと高く、そして、それが高じて、他人を見下したり、威張り散らしたりと、害が生じてくる。そのようなタイプの老人であれば、周りから老害だと煙たがられる。
[老兵はただ消え去るのみ]
◎それ故に、自我は、肉体とも手を組まず、精神とも手を組まず、"老兵はただ消え去るのみ"である。宗教はそう期待する。"そうなれ"と、呼びかける。
[無の深淵が待ち構える]
◎しかし、自我が消え去る、無になる、死ぬ前に飛び越えなければならないハードルが待ち構えている。激しい恐怖、無の深淵が大きな口を開けて待ち構えている。冒険物語では、それを危険な旅、危険と恐怖が待ち受ける冒険として表現される。
[無・死はどうなることなか]
◎では、無になるとはどうなることなのだろうか。死ぬとはどうなることなのだろうか。この答えを死後世界から持ち帰った者はいない。今、江原啓之氏がスピリチュアル・カウンセラーとして人気を博している。私も彼のファンである。
[臨死体験]
◎話を戻す。わずかに、臨死体験者が、死後世界らしきものをもたらしてくれる。でも、その人々は死んだわけではなかった。彼らが持ち帰ったものは本当に死後世界なのだろうか。
[one of them。one for all]
◎実は、無責任にも、"実は"と見てきたような顔をしていうのですが、死ぬとは、"one of them"になることなのです。別の言い方をすれば、"one for all"になることなのです。
[自分我が消える]
◎"one of them"、"one for all"とは、自分"が"(我)、自分"が"(我)、という自分を中心にする"自分我"が消えてしまい、"みんなと"、"みんなで"という無我が主人公に着任することなのです。
[無我は調和・平和の使者]
◎この無我("みんなと"、"みんなで")が自我と入れ替わると、集団に調和を、平和をもたらす。我を張る、我がままを言う者がいなくなるのだから。
[無我=普遍我]
◎しかし、実際には"無我"(自我が消え去るの)ではなく、"普遍我"に切り上がるという方が真実に近い。階層構造を切り上がってゆくように。自分自身しか念頭にない自我から、普遍性を備えた我になってゆく。
[毛虫から蛾に]
◎地上で葉を食い散らす毛虫から繭(マユ)を通過して大空を舞う蛾になって行くように。