真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

ヨガや禅から見た集中力

「集中力」
◎またまた、「集中力」について書きたくなった。ということで、今まで、自分のブログの中で、「集中力」という語を使った記事の本数を調べてみた。
「記事は5本」
◎全部で14本である。「え、ほんとに」と、その意外な少なさに自分ながら驚いた。でも、題名に「集中力」を使った記事は5本ある。
参考資料⇒(私のブログ記事)「「集中力を理論する実践する」を電子出版しました」「集中力四度」「集中力三度」「集中力再び」「二種類の集中力を使い分けよう」「高い集中は、不必要な意識を排除する能力から生まれる」(ただし最後のこの記事の題名は集中力ではないが)
「更に追加する理由」
◎これだけ書いたのに、あらためて更に追加する理由は、あるコラム記事を読んでいて、「疑念」という言葉が思い浮かんだからだ。
「宗教的、哲学的視点で見る」
◎「集中力」に関しては、心理学的、脳科学的、宗教的、哲学的な方面から見ていくことができる。今回は宗教的、哲学的視点で見てみたい。
「考え通さないと気持ちが収まらない」
◎ところで、「集中力」について書こうと思ったきっかけの記事を探したが、行方不明である。その記事中で、詰め将棋を一旦考え始めると、詰め終わるまで、考え通さないと気持ちが収まらないというようなことを述べていた。
「疑念」
◎その行為から「疑念」という言葉を思い浮かべた。しかし、「疑念」とは、一般的には、「うたがわしく思う気持ち」である。
「疑団」
◎であっても、ヨガや禅では、その言葉を特別な意味で用いる。それは、「集中」を意味する。「疑団」という言葉も使われる。
「冥想の3段展開」
◎私は「ヨガ」についてはほとんど何も知らないので、「冥想の3段展開」(=from"アヴァンギャルド精神世界")から引用しながら話を展開する。
「ダーラナー」
◎「パタンジャリのヨーガ・スートラでは、冥想の展開は、3段階である」。「第一段階は、ダーラナーと呼ばれる一点への集中である」。この「ダーラナー」が、「疑念」である。
「左脳的・収束的集中」
◎私は、この「ダーラナー」「疑念」を、意識的・積極的・能動的・左脳的・収束的集中と呼ぶ。「ダーラナー」「疑念」は、意志・意識によってまず生み出されるからである。
ディアーナ
◎そのような意識的「集中が無努力に転換する」のが、「第二段階」の「ディアーナ」である。私は、これを、無意識的・受動的・右脳的・拡散的集中と呼ぶ。
「固定された状態」
◎「ディアーナ」とは、対象に集中が意識的努力なしに固定された状態である。飛行機が気流の流れに入ってそれに乗ってゆく感じである。船が潮の流れに沿って進む状況である。
「流れの中に浸り切った意識状態」
◎「ディアーナ」(静慮)は、「対象を認識する絶え間ない流れ」である。集中という流れの中に浸り切った意識状態である。
「禅」の語源はディアーナ
◎「禅」でも、「ヨガ」と同じである。というのは、ともに源流はインドである。言葉もインドに源を持つ。日本語の「禅」の語源は、「ディアーナ」から来たものである。
「禅那」
◎「サンスクリット語」の「ディヤーナ」、あるいは「パーリ語」の「ジャーナ」が、中国で音写され「禅那(ゼンナ)」「禅(ゼン)」になった。
参考資料⇒「禅」=from"Wikipedia"
「ディアナ(Diana)」
◎面白いことに、「ローマ神話における樹木の女神。女性の守護神で、多産の神。古くからギリシャ神話の女神アルテミスと同一視されて狩猟・月の神」を「ディアナ(Diana)」と呼ぶ。何か関連があるのだろうか。
「抜け出せなくなる状態」
◎先程の例(記事)で言えば、最初は意識的に詰将棋を考え始めるが、次第にそこから抜け出せなくなる状態が、「ディアーナ」である。私にもこのような強い集中状態があればと思う。
「天才・秀才」
◎このような極めて強力な集中力の持ち主が、天才、そこまで行かなくても、秀才といえる人々である。どちらかと言えば、強力な集中力の持ち主だから、天才・秀才と呼ばれたのだといえる。
「課題に執着できない」
◎普通の凡人は、日常生活を強く意識してしまって、目の前の課題に執着できない。割り切ってしまう。日常生活の方を優先させてしまう。
寝ても覚めても
◎日常生活を切り捨てれば、寝ても覚めても、ある事柄に気を取られてしまう。意識して考える・思考するというのではなく、脳が勝手にその事柄に向かい続ける。
「向かい続けられる環境」
◎悟りを得るには、出家しなければならないのは、そういう理由からだろう。出家すれば、ある課題、ある問題を抱えて、それに向かい続けることができる環境に居られる。
「意識は向かい続けられない」
◎普通人であれば、ある事柄に向かっても、意識は向かい続けることができずに、他に向かう。少なくとも、他の事柄に向かい続けざるをえない。しかし、その間も、無意識(脳の一部)は、その事柄に向かい続けている。
「不意に解決策が思い浮かぶ」
◎他に向かう意識の強さが緩むとき、例えば、散歩中、コーヒーなどを飲んでいるとき、入浴中、などに、不意にその事柄に対する解決策などが思い浮かぶ。
「解けないような難問を公案として」
禅宗では、特に臨済宗では、修行僧に、とても解けないような難問を公案として与える。与えられた僧は、四六時中、それに集中する、疑念する。
参考資料⇒「禅体験/久松真一記念館」
「無意識的に寝ている間も集中」
◎最初は意識的に、集中していたものが、無意識的に、寝ている間も、それに集中するようになる。そのような状態をも疑団・疑念と呼ぶ。
「静慮」
◎でも、ヨガ的には、その心理状態は、「ディアーナ」であろう、少なくとも、それはすでに「ダーラナー」の段階を通り越している。
「大きな課題や難問を抱えて」
◎このようなことを考えると、大きな課題や難問を抱えて苦しむのは、宗教的には、素晴らしい修行状態に入れる入り口にいることになる。後は本人と環境次第である。
参考資料⇒(私のブログ記事)「母の死で生きる意味を見失ったドイツ人が」
参考資料⇒「悟りの体験と分析:その2」
「サマーディ(三昧)」
◎なお、上記のサイト「冥想の3段展開」では、第三段階は、サマーディ(三昧)と呼び、自分と対象が一体になる状態(融合)である。これは仏教的には、「無我」と呼べる。