真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

悪人正機と救済と宗教生活と

悪人正機
◎読売新聞の夕刊を読んでいると、「悪人正機」について書かれた記事に目が止まった。ということで、今日はそれについて思ったことを書きたい。宗教に関心のない方には退屈な内容かも知れないことを予めお断りしとく。
「悪人こそ救済対象」
◎なお、「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。私はこの意味が未だにあまりよくわからない。
悪人正機説に反発」
◎宗教についてさほど関心がなかった頃(ほぼ40歳以前まで)、「悪人こそが救われるべきだ」という発想に、とても嫌悪感を感じた。その言葉にすごく不愉快さを持っていた。
「因果応報」
◎それを言うならば、真面目に生きている者は、馬鹿を見るではないか。「因果応報」で、悪人は苦しむのが当然ではないかと、憤りすら感じていた。今でもその気持は健在である。
「放蕩息子の帰宅」
◎しかし、宗教に関心を持ち始めてから、西洋の聖書にも、「放蕩息子の帰宅」という話があるのを知った。これは幾分か、「悪人正機」と通じるテーマでもあるように思える。「放蕩息子が帰ってくると、父親は彼を歓待する」という話である。
参考資料⇒「放蕩息子」
「心にしっくり収まらない」
◎これに対しても、最初の頃には、「なぜだ!!!、なぜなんだ!!!」と、その考えに強い不愉快さを感じた。未だに心にしっくり収まりがつかないでいる。
「読み替えると理解」
◎これは、「父親をキリスト」に、「放蕩息子を宗教心がない者」に、「帰宅を宗教心のよみがえり(改心)」と、読み替えると、理解できる。そうすれば、キリストが、宗教心のなかった者の心に宗教心が戻ってきたのを喜ぶとなる。
「マリアとマルタの家のキリスト」
◎聖書には、さらにまた、「マリアとマルタの家のキリスト」という話もある。これは余談だが、「マリア」はいつも良い方の役を受け持つように思える。
「マリアとマルタの態度」
◎キリストが彼らの家を訪問すると、姉マルタはせっせせっせと歓迎の準備をしているのに、妹マリアはキリストのそばで何もせずに話を聞いているだけである。
「キリストは妹マリアを褒める」
◎そこで、姉マルタが、そのことをキリストに愚痴った。しかし、意外なことに、キリストは、妹マリアの態度の方を褒める。
「妹マリアは甘ったれ?」
◎実は、その話を知って、私は、キリストのその判断に怒りすら感じた。妹マリアを、甘ったれ、わがままで、楽な方ばかり取る嫌な性格と感じた。本心では未だに姉マルタの肩を持っている。
「キリストの判断は正しい」
◎この場合も、社会生活にばかり気が向く姉マルタと、宗教的な話に熱心に耳を傾ける妹マリアというように解釈する。と、逆転、キリストの判断は正解となる。
「社会生活よりも宗教生活を重んじる」
◎この二つの話から私なりに解釈すれば、社会生活よりも宗教生活を重んじて、それを実践しなさいと、宗教は説いているとなる。宗教家は当然ながらそう言うだろう。
「救済とは」
◎では、宗教生活とはどんな生活なんだろうか。その前に、話を戻すが、宗教で言う、「救う」(救済する)とは、「神・仏などの力によって平安な心的状態に導いたり、迷いや悩みを取り除いたりする」(from「デジタル大辞泉」)ことである。
「三つの円」
◎私は、このことについて、同心円という視点から考えてみた。宇宙を大きく分けて、「宇宙全体」(物質)という大円と、「動植物」という中円と、「人間」という小円という、三つの円を考えた。
「人間は動物の一種」
◎いちばん外側にあるのは、宇宙全体円である。宇宙全体円は、もちろんその中に動植物も人間も含む。人間は、動物の一種であるから、動植物円という中に含まれる。
「父母未生以前の本来の面目」
◎話は翔ぶが、禅宗には、「父母未生以前の本来の面目」という言葉(公案)がある。「人が居れば眼耳があって[雨滴声]と理解できますが、眼耳が無い。どうして雨滴声といえるのか」。引用from「寺報175号記事「父母未生以前の本来の面目」」
「左脳的思考方法(二分法)」
◎「父母」(と分けること)は、左脳的思考方法(二分法=社会生活)を代表する。「あれは雨だ、これは善で、それは悪だ」との思考。「父母未生以前」とは、そのように感じ思考しない、あるいはそうする以前のあるがままの状態(=宗教生活)。
注)仏教(特に禅宗)は、思考を止めることを要求する。
「あるがままに受け入れる」
◎「これは善で、それは悪だ」と思考(判断)しないで、あるがままに受け入れる。つまり、人間円(社会生活)から、動植物円へと広げる。
「宗教生活とは」
◎「善悪を思考」するのが「社会生活」、「あるがままに受け入れる」のが宗教生活。禅宗では、目の前の木や石と同化する宇宙全体円にまで広がれという。
「社会生活の観点から言動を判断」
◎宗教を知る以前は、「善悪を思考」(父母誕生後)する「社会生活」という観点から、観点だけから、人々の言動を判断してきた。
「宗教という視点から見る」
◎キリストや宗教家は、もちろん宗教という視点から見る。「あるがままに受け入れる」という点においては、大人よりも赤ん坊の方が優れている。つまり、大人よりも赤ん坊の方が宗教心を持つ。
「宗教生活の観点からはほめられるべき」
◎「放蕩息子」にしても、「妹マリアの態度」にしても、単に社会生活という観点からは、批難されるべきだろう。だが、社会生活よりも宗教生活を大切にするという観点からはほめられるべきだと見る。
「どれほど宗教心を持っているか」
◎宗教家からは、どんなに成功した社会生活を送っているかではなく、どれほど宗教心を持っているかが、問われる。
「社会生活は宗教的評価に無関係」
◎だからどんなに素晴らしい社会生活を送っていても、宗教面の評価には全く無関係である。逆に、どんなにひどい社会生活を送っていても、宗教心とは無関係である。
「成功者ほど宗教心から離れている」
◎というよりも、逆に、社会的に成功している者ほど、宗教心からは離れていることが多い。だから、キリストは、「幸いなるかな 心の貧しき人 天国はかれらのものである」と、呼びかける。
参考資料⇒(私のブログ記事)「振り込め詐欺と笠地蔵」
「挫折が新しい人生のきっかけ」
◎私はこのブログで「生きる目的は何なのだろうか」という記事を書いた。その中で、挫折が、新しい人生、宗教的な生き方へと進むきっかけ(改心)となることが多いと述べた。
「悪人の方が改心の可能性が高い」
◎社会的に成功している者よりも、悪人の方が、改心する可能性が断然高いように思える。「悪人正機」にはそのような背景があるのかなと思ったりもした。